88.不安定なトライアングル
「そんなこともあったかな。当時は部活一色の毎日だったからな。寝てもさめてもバスケのことしか頭になかった。実際問題、生徒会との両立は無理だし、興味もなかったしな」
「おかげで無風選挙だった。でも本音を言えば、二期連続だったから、君にやって欲しかったというのもある。まあ、もう終わったことだけどね。君なら僕が手をつけられなかったこともいろいろ改革してくれそうだったから。残念だったよ」
どこか遠くを見るような眼差しでたばこをくゆらした大河内は、まだ半分も吸わないうちに灰皿の中で火をもみ消す。
それを見計らったかのように、遥がいきなり大河内をキッと睨みつけたのだ。
「大河内。俺が何を言いたいか、もうわかってるだろ? 」
とても低い声だった。
「ああ……」
大河内が手元のコーヒーに視線を落とし、頷いた。
「もうこれ以上、うちのに近寄らないでくれ。俺、何か間違ったこと言ってるか? 」
「いや。もっともだと思う。蔵城は、君の彼女だよ。でも……」
「でも? でもなんだ。言えよ」
遥の声が少し大きくなる。
それと同時に隣のテーブルのサラリーマンがぎろっとこっちを見た。
わたしは慌てて遥の腕に手を添え、なだめるような目で彼を見上げる。
ところがそんなわたしの不安をよそに、大河内が追い討ちをかけるのだ。
「僕が心の中で誰をどう思おうと、それは自由だし、誰にも干渉されたくないと思っている」
遥の体がピクッと反応する。わたしは彼の腕をぎゅっと握った。
遥、どうか怒らないでと心の中で叫びながら。
「大河内、それはどういう意味だ? 」
遥の語気が荒くなる。
「そのまんまだよ」
「なんだと! 」
遥はテーブルをこぶしで叩きつけ、今にも掴みかからんばかりの勢いで大河内に詰め寄る。
その振動で、テーブルの端にあったシュガーポットのふたがカランと音を立てて、トレーにずり落ちた。
静かな店内にその金属音が甲高く響き渡り、客が一斉にこっちを向く。
皆が一様に不可思議な三人組みの言動に注目しているのだ。
咄嗟の事にどうすればいいのかわからず、恐る恐る手を伸ばし、シュガーポッとのふたをもとに戻した。
アイスコーヒーを一気に飲み終えた遥が、幾分冷静さを取り戻し、声を抑えて話し始めた。
「おまえがこいつに気があるのは、昔から知ってたよ。でもまさか、まだあきらめてないとはな……。俺も正直驚いている」
「君たちが婚約してるってことも、今日、彼女から聞いたよ。二人の間に無理やり入り込んで、どうこうしようなんてことは考えてない。ましてや蔵城の気持ちを無視して、彼女を君から奪おうだなんて……。それだけは絶対にしない。やっても意味のないことだとわかってるよ。ただ、同郷の友人として蔵城とこれからも付き合っていけたらいいなと思ったけど、それすらも堂野を傷つけるのなら……」
次第に無機質になっていく二人の会話が、わたしの頭上をまるで他人事のように通り過ぎていく。
さっきは、遥の怒りの赴くまま、外で乱闘シーンが始まるのかと思いきや、今は不気味なほど静かに時が過ぎ、遥の呼吸も全く乱れていない。
嵐の前の静けさなのだろうか。
到底二人の顔を見る勇気などなく、ひたすら俯いて、グラスの中の黄金色の液体と、氷の上でぐったりしている輪切りのレモンを、ぼんやりと見ていた。
こんなことなら、遥の言ったとおり、ついて来ない方がよかったのかもしれない。
張り詰めたような空気の中、先に沈黙を破ったのは遥だった。
「柊はおまえのことをただの同級生としか思ってなくても、大河内、おまえはそうじゃない。映画を観ただけだと聞いても、俺の腹の中は言いようのない怒りで煮えくり返っている。とても平静でなんかいられない。今だって、ギリギリの精神状態だ……。それに多分、おまえはきっといい奴と呼ばれる部類の人間なんだろう? 昔から人望もある。そんなおまえに、今後柊の気持ちが傾かないとは言い切れない。俺はどうしようもないほど臆病者なんだよ。大河内という存在が怖いんだ」
「僕も同じさ。今も堂野への嫉妬心で、身も心もボロボロに壊された気分だ。でもそんな心の内をありのままにさらけ出したとしても、蔵城が心変わりするわけもないし、期待もしない。……わかった。もう君たちの前に姿を見せないよ。もちろん、これから企画されるだろう同窓会にも行かないし、実家に帰ることも極力避けようと思う。だから安心してくれ……」
そう言って、大河内がまたたばこを一本取り出し、くわえた。
でもそこまでしなきゃならないのだろうか。
この先、二人きりで会わないのは当然だけど、同窓会にも行かないなんて、そこまで気を遣わなくてもいいと思う。
実家だって自由に帰って欲しい。ご両親も兄妹も、彼の帰省を心待ちにしているはずだ。
彼はそのまじめな性格上、口にしたことはこれからも一生守り続けるだろう。
人気者の元生徒会長不在の同窓会なんて、想像しただけでも虚しいではないか。
ましてや、それがわたしのせいだなんて……。
このままでは、わたしの方こそ、一生同窓会に行けない。
「ねえ、遥」
わたしは咄嗟に思いついた打開策を提案することにした。
これならばきっと、遥も納得するだろうと思ったのだ。
「何も大河内君が、そこまでする必要なんてないと思うの。年に一度の中学の同窓会くらい、行ったって、全然かまわないと思う。それに、これからもこうやって三人で会えば問題ないんじゃないかな? わたしたち、同じ地域に実家があるんだし、共通の話題も多いよね。大学生活で困ったことがあれば、お互い助け合っていけば……」
助け合っていけばいいのに……と言いかけたとたん、遥が唇をわななかせるのだ。
怒りを露わにした目をわたしに向けて。
「柊。おまえ……。いい加減にしろよ」
「遥。わ、わたしは、ただ……」
「柊は何もわかってない! 仲良しグループなんて、子どもみたいなこと言ってんじゃねえよ。わかった。そんなにこいつと会いたいなら、おまえ一人で会えばいいだろ! 勝手にしろ! 俺はもう帰る」
遥はぎいっと椅子を引いて立ち上がった。肩で息をしながら爆発寸前だった。
わたしを震えさせるくらい冷ややかな目をして、見下ろしている。
上着の内ポケットから取り出した折り目の付いた一万円札を乱暴にテーブルに置く。
「大河内、おまえにも脈があるみたいだな。まあ、今後も、懐かしい思い出話や俺のことをネタにして笑って、二人でよろしくやってくれたらいい。こんなことは、もうたくさんだ! 」
そう言い残し、瞬く間に遥がわたしの前から消え去ってしまった。