87.静かな夏の夜 その2
「先輩、いろいろとお世話になりました。ここで失礼します」
遥が車の中にいる本田先輩に向かって声をかけた。
本田先輩は助手席の窓から顔を出し、こちらこそ世話になりありがとう、と返事をくれる。
その時、突然両手にあったはずの重みが消え、軽くなったのに気付く。
クリーニングに出してから返そうと思っていたドレスや小物の入った紙袋を、しぐれさんに奪われてしまったのだ。
「柊さん。これはいいから。あなたは何も気にしなくていいの。クリーニングはね、決まったところにまとめて出すから心配しないで。さあ、早く行って。楽しんで来てね」
「しぐれさん……。ごめんなさい。今日は、何から何までお世話になり、ありがとうございました」
「そんな他人行儀なあいさつなんて、いいから、いいから。早く。ほら、堂野君が先に行っちゃうわよ。柊さん、またね。また連絡するね」
しぐれさんの声が、ロータリーに響き渡る。
わたしは何度も後を振り返り、彼女に向かって手を振った。
わたしの前をゆっくりと歩いていくのは、遥と大河内だ。
今までに一度も目にしたことがない組み合わせかもしれない。
これからどこに行くのだろう。そして何をするのだろう。
遥が何かを言うのだろうか。
大河内に向かって? それともわたしに向かって?
街灯に照らされて出来た二人の黒い影を追いながら、歩いていく。
時折り横を走り抜ける車の音が耳をかすめる。
とても静かな夜だった。歩いている三人の足音しかしない、静かな夏の夜だった。
「大河内……。おまえとこうやって話すのは、初めてだな」
遥は、テーブルにストローを置いたまま、アイスコーヒーの入ったグラスを直接手にして、ごくりと飲んだ。
「ああ。中学の時は結局一度も堂野と同じクラスにならなかった。それに、共通の友人もいなかったし」
大河内はホットコーヒーにミルクを入れ、スプーンでゆっくりとかき混ぜながら言った。
「共通の友人か……」
遥がそう言ってわたしを見る。まるでわたしがその共通の友人だとでも言いたげに。
「おまえが東京に来てるってことは、藤村に聞いて知っていた。もっと早いうちに、おまえに会っておくべきだったのかもな」
遥がグラスから手を離すと、そこだけ水滴が取れて、丸く指の形が付いている。
でもまたすぐに曇ってきて、小さな水滴で覆われるのだ。
ここは、喫茶店だ。
向かいに国内各地で人気のセルフサービスのコーヒーショップがあるけど、遥は無言のまま、この小さな喫茶店に入って行った。
ホテルから歩いて十分くらいのところだ。当然、アルコール類はない。
「いい? 」
ブレザーのポケットからたばこを取り出した大河内がわたしを見て、吸ってもいいかと訊いたのだ。
わたしは一瞬ためらいながらも、ええと言って頷き、大河内を凝視する。
たばこを吸う大河内は初めて見る。ブルーのパッケージの中から一本取り出し、口にくわえた。
「堂野は? 」
大河内が遥にもたばこを差し出す。
でも遥はいいと言って断り、またアイスコーヒーを飲んだ。
遥はたばこは吸わない。
でも、一度だけ、吸ったのかなと思ったことはあった。
遥は何も言わないけれど、遅くに帰ってきて、抱きしめられた時。
そんな味の口づけをされたことがあったからだ。
大河内がたばこの先にライターをかざして息を吸い込む。
火がついたたばこは、一時だけ、赤く燃えさかるように見えた。
遥やわたしに煙が来ないように配慮してくれているのだろうか。
大河内は天井を見上げて、自分のはき出した白い煙の行方を目で追っていた。
「堂野……」
灰皿を引き寄せ、指をとんとんとはじいて灰を落とす。
なぜだろう。そんな何でもない大河内のしぐさを、わたしは息を呑んで見守っていた。
「なあ、堂野。君と僕とは、案外似てるのかもしれないな。いろいろな面で」
大河内ったら、急に何を言い出すのだろう。
わたしはアイスティーを飲みながら、二人の不可解なやりとりを黙って聞いていた。
「昔からそんな風に思っていたよ。僕が生徒会長に立候補した時も、君が対立候補なら選挙に負けると思ってた。なあ、堂野。担任から推薦されていたんだろ? 」
遥がふっと息を漏らす。今ごろ何を言い出すんだとつぶやきながら。
でも、そんな話、今はじめて聞く。
遥が生徒会長候補に推薦されていたなんて、わたしは今の今まで知らなかった。
遥は何も教えてくれなかったから……。
と言っても、当時はほとんど話をしなかったのだから、無理もないが。
もし遥が立候補していたら、かなりの接戦になっていたのだろうか。
遥の生徒会長姿って、どんな感じなんだろう。
無愛想で、いつも面倒くさそうで。不機嫌な顔の遥が生徒会長だなんて、やっぱり想像できない。
誰がなんと言おうと。生徒会長は大河内以外考えられない。