86.静かな夏の夜 その1
わたしの横で同じように立ち止まったしぐれさんが、あの人よねと声をはずませ、遥の隣にすっと身を寄せた。
「あ、あの……。試写会のホールでお会いした方ですよね? 」
しぐれさんがほんの少し首をかしげ、大河内に訊ねた。
「あっ……」
大河内が硬い顔つきのまま、驚きの声を上げる。
「やっぱりそうだったのね。さっきはゆっくりとお話できなくてごめんなさい。えっと、大河内さんでしたよね」
「はい、そうです」
「堂野君。あたしのこと、この方にきちんと紹介して下さらない? 」
突然そんなことを言うしぐれさんに、遥が眉を顰める。
「ねえ、堂野君」
えっ? わたしは目の前のありえない光景に息を呑んだ。
しぐれさんが遥の腕に自分の手を絡ませ、甘えたようなしぐさを見せるのだ。
わたしは繋がった遥の腕としぐれさんの手から目が離せなくなった。
やめてと言いたいのに。言えない自分が無性に腹立たしい。
「あ、ああ。わかりました。こちら女優の雪見しぐれさん。大河内、おまえもよく知っているだろ? 」
遥がまとわりついているしぐれさんの手をどうにか引き離して、大河内に紹介する。
「もちろん、よく存じ上げています。こちらこそ、ホールでは失礼いたしました」
ようやく緊張がほぐれたのか、大河内が笑顔になった。
「お忙しいのに、こうやって来てくださって嬉しい。堂野君、柊さん、彼を呼んで下さってありがとう」
しぐれさんが振り返り、にっこりと微笑んだ。
いや、それは違う。遥が腹いせに大河内を呼んだんだ……などとは言えなくて。
「蔵城」
わたしは、はっとして大河内を見た。
「さっきは無理を言ってごめん。館長や主任も君の貴重な意見が聞けてよかったと言っていたよ。それにしても今日は驚かされっぱなしだな。いったいどうなってるんだい? 蔵城だけでなく、堂野も雪見しぐれさんと知り合いなのか? 信じられないよ。ああ、頭の中がクラクラしてきた」
頭をぶるぶると振り、両手で頬をパンと叩いた大河内が、しぐれさんと遥とわたしを何度も不思議そうに見ている。
そこにいるのは、いつもの颯爽とした大河内ではなかった。
中学時代でさえも、ここまでうろたえている彼を見たことがない。
「俺は今、しぐれさんの親戚の家で世話になってるから、こうして親しくさせてもらってるんだが」
遥がいかにも答えるのが面倒だとでも言うように投げやりな態度で大河内に説明する。
「そうだったのか。それで蔵城も雪見しぐれさんと……」
わたしは遥を視界の端に捉えながら、控えめにこくっと頷いた。
「雪見さん。本日はせっかくお招きいただいたのに、こんなに遅くなってしまって申し訳ないです。会場の後始末に時間がかかってしまって。もう帰ってしまわれたかもしれないと思っていましたが、こうやって再びお会いできて本当に光栄です」
すると、しぐれさんがおもむろに両手を伸ばし、大河内の右手を包み込むように握ったのだ。
しぐれさんの大胆な行動に思わず目を見張ったが、それがしぐれさんの握手のやり方だとわかり、なぜかほっと胸を撫で下ろした。
遥の腕にしがみついた時といい、両手で大河内の手を握ったことといい。
あまりにも大胆なしぐれさんの行動に、さっきから驚かされっぱなしなのだから。
ドラマや映画で数々のラブシーンも演じてきているしぐれさんにとって、男性に触れることに対する垣根が低く設定されているのかもしれない。
「今日はあなたにお会いできて、本当によかった。あたしにも、映画の感想を聞かせてもらえないかしら」
「そ、それは、もちろん。でも今夜はもう遅いですし」
「そうね、じゃあまた日を改めて。柊さんから連絡していただこうかしら……」
「大河内。今からちょっといいか? 」
いいムードになりつつある二人だったのに、何が気に入らないのか、遥が気難しい顔をして話に割り込んできた。
しぐれさんがわたしから大河内に連絡をしてもらうと言ったため、それが気に障ったのかもしれない。
「堂野……。別にかまわないが」
大河内が怪訝そうな顔をしながらもしぐれさんの手を離し、遥の望みに従う。
「しぐれさん。申し訳ない。大河内と会うのは随分久しぶりなんだ。だから……」
「まあ、堂野君。今からまた飲み直すの? いいわね、同級生って。あたしも行きたいな。あっ、でも今夜はやめておくわね。だって、車でマネージャーが痺れを切らせているみたいだもの。明日も秋の特番の撮影があって、スタジオ入りが早いし。それじゃあ、今夜はこれで。ねえねえ、柊さんは? どうするの? 行かないのなら、家まで送るけど」
「わたしは……。あの、行きます」
もちろん、ついて行くに決まっている。
遥と一緒に帰りたいというのもあるが、それ以上に二人のことが心配だからだ。
大河内に対して何をしでかすかわからない今夜だからこそ、遥から絶対に目を離してはいけないと思った。
なのに遥ときたら不服そうな目を向けて、来なくていいと言う。
「そんなあ……。わたしも連れて行って。お願い」
みっともないと思いながらも、遥にすがりつくような目で訴える。
するとしぐれさんが腰に手をやり一歩足を踏み出して、助け舟を出してくれた。
堂野君って、意外と冷たいのねと。
さすがに遥もしぐれさんには敵わない。
ったく、世話の焼ける奴だななどとぶつぶつ言いながらも、わたしが一緒に行くことを許してくれた。