85.俺、怒りますよ。本気で その2
さっきの遥の激しい口付けを思い出し、顔中がカーッと熱くなってきた。
わたしの口紅が遥にあれだけ付いてしまったのだ。取れていても不思議はない。
うろたえるわたしを見て、しぐれさんは尚も小刻みに肩を震わせ、声を出さずにクスクスと笑い続けていた。
「おい、柊。ぼーっと突っ立ってないで、早くメイクを直してこい」
「あ、うん」
「それと、しぐれさん。あなたのご希望どおり、あいつをここに呼びましたから。もう少ししたら来るんじゃないですか? 」
遥がわたしを出入り口の方へ押しやり、しぐれさんの前に立ちはだかる。
「えっ? ホントに? 」
それを聞いたしぐれさんの瞳が、キラキラと輝きを増した。
「俺もあいつに会いたいんでね」
「なんだか、物騒だわね。でも嬉しいわ、ふふふ」
「しぐれさん。あいつが人の彼女に手を出さないよう、しっかり見張っておいてくださいね。頼みましたよ」
「んもう、堂野君ったら。でも、理由はどうあれ、本当に呼んでくれたんだ。ありがとう。なんだかわくわくしちゃうわ」
何度も瞬きを繰り返して次第に頬を染めていくしぐれさんをその場に残し、わたしは遥に追いたてられるようにして、化粧室に送り込まれた。
パーティー会場に着いてから、どれくらい時間が経ったのだろうか。
あんなにたくさん、色とりどりに並んでいた料理も、今では添え物のグリーンが銀のトレイの隅っこにぽつんと取り残され、給仕係のスタッフが忙しげに下げていく。
そろそろお開きのようだ。来客の前でしぐれさんが笑顔で謝辞を述べ、深々とお辞儀をした。
それはまるでバレリーナの挨拶のようで、とても優雅で、煌びやかな光景だった。
会場内がわれんばかりの拍手に包まれ、真夏の夜の宴もとうとう終わりを告げたのだ。
テレビで見て知っている俳優も何人か来ていたし、映画関係者や新聞雑誌その他マスコミ関係の人たちも多かった。
遥も何人もの人に呼び止められ、話を訊かれている光景がとても不思議だった。
どの人にも分け隔てなく無難に応対する彼の姿が誇らしくもあった。
後片付けが終わるまで遥を待って、一緒に帰ればいい。
そうだ、わたしも手伝えば、早く終わるかもしれないと思い立つ。
そして今夜はうちに泊まってもらうつもりだ。
遥の結婚への意志があれほどにも固いものだと、改めて知らされたのだ。
それならば、もう別々に暮らす理由はどこにもない。
親の心配など取るに足らないこと。
すでに親族にも知れ渡っている二人の交際は、もう隠す必要もなく、ゴールに向かって突き進めばいい。
これからは彼にずっとそばに居て欲しいと言ってみようかな。
遥の驚く顔が見たい。そうすれば機嫌も直って、いつものように優しく抱きしめてくれるかもしれない。
わたしは解決法を見つけた名探偵のように大きく頷き、会場を後にする人の波に紛れて、着替えのために控え室に向かった。
ようやく片付けが終わると、もう十一時をとっくに過ぎていた。
しぐれさんとマネージャー、そしてパーティーの間中ずっと受付で来客の接待を任されていた本田先輩と共にホテルを出る。
もちろん、遥も一緒だ。
「柊さん、あなたにまで後片付けを手伝っていただいて、本当に申し訳なかったわ。今夜はどうもありがとう。うちの事務所の車で家まで送るように頼んでいるから」
「ええ、そんな。わたしは大丈夫です。お気遣いは結構です。しぐれさんこそ、お疲れが出ませんように」
「何言ってるの。遠慮はいらないから。さあ行きましょう。……大河内さん。あの人、とうとう来なかったわね。ちょっと残念」
しぐれさんがわたしにだけ聞こえるような小さな声で、大河内のことをぼそっと付け足した。
深夜だというのに、七月の戸外の空気はむっとしていて、呼吸すら辛く重く感じる。
見る間に肌が汗ばみ、額に汗が滲む始末だ。
両手に借りたドレスや小物類の入った紙袋を提げているため、汗が拭えないことをちょっぴり不快に感じながらも、ホテルの前のロータリーまでたどり着く。
その時だった。
ホテルの正面玄関前でタクシーが止まり、中から見覚えのある男性が降りてこっちに向かって来るのだ。
わたしの後ろを歩いていた遥が先にその人に気付いたのか、つかつかと前に歩み出る。
「大河内。遅かったじゃないか」
「堂野……」
「怖気づいて、もう来ないのかと思っていたよ。今日はうちのが世話になったそうだな」
「え? あ、ああ……」
腕を組み、微かに笑みすら浮かべながら、遥がその男性に向かって辛辣な言葉を投げかける。
大河内はいきなり遥が姿を見せたことにかなり動揺しているようだった。
一見、ごく普通の昔なじみ同士の再会のようにも見えなくはない。
しかし、遥の発する言葉ひとつひとつが、まるで鋭利な刃物のような危うさを秘めていて、大河内の表情が徐々に強張っていくのがありありと見て取れた。