83.遥の愛の形 その2
「ひいらぎ……」
壁から手を離した遥が、わたしの首の後ろを緩いウェーブのかかった髪ごと思いっきりつかみ、自分の方に引き寄せる。
その刹那、彼の唇がわたしのそれを強くむさぼるように覆いつくした。
あまりに唐突で荒々しい口付けにめまいを起こしそうになる。
息も継がせないほどの狂おしいまでの情熱が、いったい今の遥のどこに潜んでいたというのだろう。
何度も何度も角度を変え、執拗なまでに求められる。
それは永遠に続くかと思われた。
わたしの膝がガクンと折れ、全身が崩れ落ちそうになった時。
急に彼の顔が離れ、今度は懇願するようなうつろな目をわたしに向けるのだ。
「柊の口から、あいつの名前は聞きたくない。二度とその名前を言うな。頼むから、二度と……」
「わ、わかった。もう言わない。遥、ごめんね。わたし……」
うな垂れる遥の肩に恐る恐る手をかける。
「柊。あいつ、おまえを追って東京に出て来てるんだぞ。偶然なんてことは、あいつに限ってはないんだ。まさか、もう接触していただなんて……。あいつがこっちの大学に進学していることを藤村に聞いていたのに。俺もうかつだったよ」
「遥。そこまで知っていたんだ。わたしは、本当に何も知らなくて。偶然に会ったとばかり……。もう何も心配いらないよ。こんなことは困るって、ちゃんとおおこ……じゃなくて、その人に言ったから。それに、それに、はる」
遥がわたしの恋人なんだとはっきりと大河内に知らせたよ、と言いかけたとたん、キッと睨まれる。
「なあ、柊。しぐれさん、言ってたよな。大河内にもパーティーに来て欲しいって。呼べよ。あいつをここに呼べよ! あいつの連絡先、知ってるんだろ? 」
突然遥が声を荒げる。でもそれだけは出来ない。絶対にいやだ。
しぐれさんだって社交辞令であんな風に言ってるだけだなのに、真に受ける必要はない。
わざわざ大河内をここに呼んで、どうしようと言うのだろう。
「遥、待って。もう二度とあの人とは会わないって決めたんだから、絶対に呼ばない。それとも遥。彼に何かするつもり? 」
「俺が何をするって言うんだ? 柊は何もやましいこと、してないんだろ? なら、俺も何もする必要はない。俺はただ、しぐれさんのために呼んでやれって言っているんだが」
「ならお願い。もうこのことは忘れて。しぐれさんだって、あのとおり忙しいんだし。呼んでも、話すら出来そうにないんだから。だから、ね? あの人を呼べだなんて言わないで。そうだ。彼のメールアドレス、今ここで消去する。もう必用ないもの。今日ですべての接触を絶つんだから。遥、消すよ、ちゃんと見ててね」
わたしはバッグから携帯を取り出し、遥の目の前で大河内のアドレスを表示させた。
消去の手順をふもうとしたその瞬間、わたしの手から携帯が取り上げられ、素早くメールを打った遥が送信ボタンを押した。
「最後に俺の記名をして、あいつを呼んだ。一度きっちり、話をつける」
「遥……」
「はははっ。安心しろ。あいつを殴ったりはしないよ。けんかとか、相手にその気がないのに、やってもしょうがない。俺と柊の間には誰も一歩たりとも踏み込めないってこと、思い知らせてやるだけだ」
わたしの口紅が付いてしまった唇を手の甲でぬぐいながら、遥が乾いた笑い声を響かせる。
とうとう一番恐れていた事が露呈してしまったのだ。
遥に相談せずに、勝手に大河内に会ってしまったわたしのせいで……。
「ひいらぎ……」
再び遥の顔が近付き、頬が触れ合った。
そのままわたしの首筋に顔を埋めるようにした遥が、そっとうなじに唇を這わせる。
「ひいらぎ……。俺の気持ちくらい、そろそろ気づけよ。なんでそうやって、いつも俺の手からすりぬけようとするんだ。俺が悪いのか? それとも、そっちが無意識でやってるのか? 」
遥の右手がわたしの背中をそっと撫でる。
「俺、もうこれ以上我慢できないから。おやじさんには悪いけど。はやいとこ新しいマンション探して、おまえと一緒に住みたい。それで、ばあちゃんの言うとおり、さっさと籍も入れてしまおう」
「籍? それって……」
「そうだ。結婚してしまおうって、今決めた。山で結婚の約束をしたあの日から、もうすぐ五年になる。婚約期間はもう十分だろ? いやとは言わせない」
遥のくぐもった声が静かに響く。
「わ、わかった。そうする。父さんには、わたしが説得するから」
顔を上げた遥がふっと笑みを浮かべ、頬に軽く口付ける。
ネクタイを締めなおし、スーツを整え。
何もなかったかのようにすました顔をして、会場に引き返して行く。
その変わり身の早さにしばし唖然とした。
わたしの方は到底、すぐさま平常心にもどるなんて、とても出来そうになくて……。
たった今、わたしは遥から二度目のプロポーズをされたのだ。
しぐれさんのパーティーの日に。それも、こんな殺風景なところで。
首筋にはっきり残る遥の熱い吐息に呼び覚まされた甘い疼きが、いまだにわたしの身体中を支配している。
会場に戻った後も、遥の顔はもちろんのこと、誰とも視線を合わさないように避けながら、再び壁際に身をひそめ、行き交う人々の足元ばかりを眺めていた。