82.遥の愛の形 その1
片手でスーツのボタンを外し、ネクタイを緩め、カッターシャツの一番上のボタンを引きちぎるようにして首元を開けた遥が、わたしの両耳の辺りで後の壁に手をつき、今にも額が擦り合うくらいの距離を保ちながらこっちを見下ろしていた。
こめかみから頬を伝う銀色の汗が、彼の首筋に次から次へと滴り落ちる。
激しく胸部を上下する荒々しい呼吸の波形が、ここから逃れられないわたしをますます恐怖の淵へと追いやるのだ。
狂気にも似た遥の眼光に捉えられ、わたしはまるで行き場を失った子羊のように、ブルブルと震えることしかできなかった。
もう隠し通すことは不可能だと観念する。
しぐれさんは、大河内のことが気になるあまり、無邪気にさっきのことを語っただけなのだろう。
大河内のことを単なる同級生だとしか思っていないしぐれさんは、わたしたちの過去に起こった出来事など何も知らないのだから、彼女の取った行動に罪はない。
それに。
わたしだって、浮気をしたわけではない。
大河内の優しさに心が傾いたわけでもなければ、彼と心を通わせたわけでもない。
遥に何も知らせなかったのは悪かったと思っているけど、もう大河内と会うこともないんだし、真実を知れば遥だって許してくれるはずだ。
だとすれば。堂々と胸を張って本当のことを言えばいい。
「遥……」
まだ震えが止まらない全身から搾り出すようにして、愛しい彼の名を呼んだ。
「なんだ」
遥の眉がピクッと反応する。
「さっきね、本屋さんに行ったって言ったの、全くのウソじゃないけど、それは目的じゃなかった。長居はしなかったんだ。そのあと、映画……観てたの……」
「映画? 」
「うん……。しぐれさん主演の映画の試写会に行ってたの。そこで偶然、しぐれさんに会った」
とうとう言ってしまった。真実をありのまま伝えた。
そのとおりだ。どこにも偽りはない。
「なるほどな。俺に内緒でか……」
「内緒だなんて……。そうじゃなくて、映画を観るつもりはなかったの。本当なんだってば。だから……」
「だからどうだって言うんだよ。しぐれさんですら、家族用に二枚しか招待券が渡らなかったんだぞ。いったいどうやって、そのチケットを手に入れたんだ。なあ、柊。答えろよ。誰かと一緒だったんだろ? そいつに、チケットをもらったのか? 」
遥はひるまなかった。全てを聞き出すまで、わたしをここから逃すつもりはないようだ。
でも、その誰かの名前を言ってしまったあかつきには。
遥がたちまち冷静でいられなくなるだろうことは目に見えている。
いや、今もすでに激高寸前の彼に大河内の名を語るなど、危険極まりない行為だ。
ハーフっぽい顔立ちのメガネの人なんて、日本中を探せばいっぱい見つかるに違いない。
わたしは大河内の名前だけは絶対に口が裂けても言わないと心に決めて、それ以外は本当の事を話し始めた。
「バイト先でたまたま会った人にチケットをもらったの。でもね、遥。わたし、そのチケット、その人に返すつもりだったんだ。やっぱり遥以外の人と連絡を取り合うのもルール違反のような気がして。それに、しぐれさんが一生懸命演じたあの映画のチケットだよ。無駄にすることなんて出来ないよ。やなっぺには、失くした事にして絶対に行くなとまで言われたけど。でもね、わたしにはそんな無責任なことは出来なかった。だから、だから。せめてもらった人に返すことで、また他の誰かに行ってもらえるんじゃないかと思ったの。それで待ち合わせしたんだけど。結果的にはその人の押しに負けてしまって、一緒に、その……」
「観たのか? 」
「……うん。でも、それだけ。本当にそれだけだから……。ね? 信じて。もう絶対にその人と会わないし、その人に連絡を取ることもしない」
「ほう……。そいつ、店でおまえに一目ぼれでもしたのか? 」
「違うって。そんなんじゃないんだってば。よくある、常連さんみたいな……」
「なら、なんでおまえを誘うんだ。ただの常連さんだろ? 何も柊限定で渡さなくても、店の人全員平等に声をかけるべきじゃないのか? なんでそんな奴にのこのこついて行く? どんな奴かもわからないのに、そんなに簡単に心を許してしまうなんて。俺よりそいつの方がいいのか? そいつの顔がいいからふらっと気持ちが傾いたとでも? おまえってやつは、そんなにも軽い女だったのか? 」
「わ、わたしが軽い女だって? ひどい。ひどすぎる。わたしが一度だってそんな軽い女だったためしがある? 」
それは遥、あなたが一番よく知ってるじゃない。
わたしが遥だけを愛していることは、遥自身が一番よくわかっていると思っていたのに。
なのに、わたしがどうしてあの大河内に気持ちがなびいただなんて言うの?
「なんでそんな事言うのよ。わたしは、よく知りもしない人に黙ってついて行くなんてことはしないし、顔立ちがいいってだけで、簡単に人を好きになったりすることもないって、遥ならとっくにわかってるでしょ? それに、大河内君が、変な人じゃないってこと! 遥も知ってるはず! あ……」
「おお……こうち? あの大河内なのか? あの……」
遥の目がカッと見開かれる。
言ってしまったのだろうか? あれほど大河内の名前を出さないと決めていたのに。
たった今、わたしの口からその名を言ってしまったのかもしれない。
大河内君、と……。