75.ハンカチ大作戦の結末 その2
隣にいるのが遥でないことにふと気付いたわたしは、悲しい感情が湧き上がるのを出来る限り我慢して、これ以上泣かないように自分に言い聞かせてみる……。
が。到底そんなことは、無理な状況で。一度堰を切った涙は、そう簡単には止まらない。
どうしよう。大河内にこんな泣き顔は見られたくない。
わたしはますます、ずぶ濡れのハンカチを顔から離すことができなかった。
拍手が止むと司会の人が出てきて、では皆様、お待ちかね……と声も高らかに意味ありげな笑顔を振りまき始める。
わたしが怪訝そうに大河内を見ると、彼はしてやったりというような顔で、今から出演した俳優たちが挨拶するんだよなどとのたまうのだ。ということは……。
すなわち、しぐれさんがここに現れるということを意味する。そ、それって……。
非常にまずいではないか。だめだ。絶対にだめだ。
わたしはあせった。
もしわたしがここにいるのがしぐれさんにバレたら、それは最悪のシナリオが今後待ち伏せていると言うことに他ならない。
無理にでも早めにここを出るべきだったと思ったが、時すでに遅し。
出入り口には会場スタッフの面々が張り付いて、厳重な警戒態勢が敷かれている。
テレビカメラも何台かスタンバイ中だ。
わたしは、手に握っているハンカチに一縷の望みをかけた。
まだ泣き続けているふりをしてハンカチで顔を覆うようにするのだ。
大河内はそんなわたしの不可解な行動を見て苦笑いをしている。
場内の割れんばかりの拍手の中、舞台に俳優たちが並んだのがわかった。
時々手の隙間から舞台を伺い、しぐれさんの様子を覗き見る。
幸い端っこに着席しているせいで、舞台中央にいるしぐれさんとは全く視線が絡まないのがわかり、幾分ほっとした。
地獄のようなこの数分間、どうにか隠れ通したわたしは、俳優達が舞台袖に下がったのを確認して、ふうーっと安堵のため息を漏らした。
本日のプログラムがすべて終了したことを知らせるアナウンスと同時に観客が席を立ち、スタッフの誘導のもと帰路につく。
とにかく一分でも早くここを立ち去りたい一心で歩みを進めるのだが、なかなか人が動かない。
そんな状況の中、大河内がわたしの背中にそっと手を添えているのに気付いた。
今すぐにでも払いのけたいのに、前も後も人に挟まれているので、身動きが取れないのだ。
というか、そんな人ごみからわたしを守るために大河内が手を添えてくれているのがわかっているだけに、強硬な態度が取れない自分が情けない。
ようやくホールのロビーにたどり着いて、大河内の手も自然に離れてくれた。
「大河内君。今夜は、どうもありがとう。じゃあ……」
「そんなに感動した? 最後にせっかく雪見しぐれが舞台に出て来てるっていうのに、君は泣き続けているんだもの。残念だったね、あははは! 」
大河内がわたしの話など全く取り合わない様子で、そんなことを言ってくる。
もう大河内との約束は果たしたわけだし、帰っても文句を言われる筋合いはない。
これ以上会話を長引かせないために、慎重に言葉を選び、もう一度、別れを切り出す。
「とってもいいストーリーだった。大河内君、今日はありがとう。もうここでいいよ。みんなの後をついて行けば、駅まで戻れると思うから……」
「何言ってるんだよ。こんな夜道、君一人で帰すわけにはいかないよ。何かあったら、堂野になんて言い訳するんだい? あっ、そうだ。少しだけ映画の感想、聞いてもいいかな? 」
「感想? 今ここで? 」
まだ帰してくれないのだろうか。
でも感想を言えばすぐにでも解放してくれるというのなら、話は違う。
「この試写会のチケット、ここの館長から渡されたんだ。僕も一応ここのスタッフだから、感想を報告する義務がある。柊……あっごめん。君を見てると、ついそんな風に名前を呼んでみたくなって。びっくりさせてごめんね」
「うん……」
「でね、蔵城がそんなに感動したのなら、是非、一言でもいいから、今の気持ちを館長に伝えてくれないかな。頼む。今後のこのホールの運営の参考にするそうだ。感想次第で、試写会の受け入れをもっと増やすかもしれないとも言っていた」
大河内が真剣な眼差しで、わたしに訴えかける。
困った、困った。
それならそうと、先に感想ありきの試写だと言ってくれれば、こんなに感動しなかったのに。
つまらなそうな顔をしていれば、こんなことにならなかったかもしれない。
いや、でも。しぐれさんに見つかるわけにはいかないし、ハンカチはあの場で、絶対に必要なアイテムだった。
泣いていたおかげで、顔を見られずに済んだのだ。
どうして次から次へと、こんな泥沼にはまってしまうのだろう。
チケットを返そうなどと思わなければ、こんな思いをせずに済んだのにと思ってみても、時は戻らない。
やなっぺのアドバイスを反故にした結果がこれだと言うのなら……。
自分のまいた種を最後まできちんと回収するのが、わたしに残された道なのかもしれない。
とうとうわたしは大河内の後についてホール横の通路を歩いてゆき、関係者以外立ち入り禁止と書いた紙が貼っているスタッフルームの扉の前で立ち止まった。