74.ハンカチ大作戦の結末 その1
「やあ。待たせたね」
程なくしてやって来た大河内は、バイト先で会った時とは一転して、夏生地で出来た仕立てのいい紺色のブレザーに白いスラックス姿で、より一層爽やかさをアピールしながら、わたしに特上の笑顔を向ける。
「大河内君。わたしの方こそ、こんなことになってしまって、ごめん……」
「どうしても抜けられないミーティングがあって。さあ、行こう」
わたしの言葉を途中で遮るようにして、大河内が遅れた理由を言ったと思ったら……。
さあ、行こうだなんて。いったい、どこへ行くと言うのだろう。意味がわからない。
だから、わたしは。チケットと本を。返しに来ただけ、なんだけど……。
大河内が放心状態のわたしの手を取ると足早に本屋から遠ざかり、JRの高架をくぐってレンタルショップの裏の路地をずんずん進んで行く。
「ねえ、大河内君。いったいどこに行くの? わたし、こ、困る……」
「もちろん映画さ。この時間に君がこうしてここに来れるんだもの。あと二時間くらい、大丈夫だって。どうせ、誘った友達の都合が悪くて、今日は無理だって理由でチケットを返しに来てくれたんだろ? それとも……。堂野に遠慮してる? 」
「そ、それは……」
もちろんそれもあるけど。
わたしが行かないと決めたのだ。行くべきではないと。
それなのに、大河内は一向に手を離す気配もなく、わたしの気持などおかまいなしに、どんどん歩いていく。
何度か路地を曲がったあと見知らぬ大通りに出た。
そのまま真っ直ぐ東方向に進み、ホールのような大きな建物の前に辿り着いた。
入り口からホール前の広場にはチケットや当選葉書を手にした大勢の人達がずらっと行列を作っている。
わたしと大河内が立ち止まったところは、ほとんど最後尾に近いところだった。
後には、ほんの数人がパラパラと繋がる。
「なんとか間に合ったみたいだね。さあ、もう降参して。バイトだって今日は入れてないんだろ? 」
「そ、それはそうだけど。でも」
「映画を観るだけだから。終わったら駅で解散。それならいいだろ? 柊の好きな雪見しぐれの主演作品は二年ぶりだし、これは絶対、君と一緒に見たいと思ってたんだ。僕のささやかな希望」
そんなに無邪気に微笑まれても、到底笑顔で返すことは出来ない。
「大河内君って、案外強引なんだ。……わかった。じゃあ、映画を観るだけなら……ね。それに、こういうのは今回だけにして欲しいの。大河内君にはまだ言ってなかったけど、わたし遥と婚約してるし。誤解を招くような行動は慎みたいと思ってる。だから、その……。わたしのことを柊って呼ぶのも。ちょっと、困る」
一瞬驚いたような表情でわたしを見た大河内は、わかったと言って頷くと、難しい顔をしたまま黙り込んだ。
普段は演奏会や演劇なども催されるのだろうか。
舞台にもたっぷりと奥行きがあり、両サイドの壁面や天井は音響効果を引き出すための工夫が凝らされている。
大河内に連れてこられたホール内は、すでに満員の人で埋め尽くされていた。
わたしと大河内がやっとのこと探し当てた席は、一階前方の端寄りの場所にあった。
それは、映画を観るには最も悪条件が揃っていると言わざるを得ないような悲惨な席だった。
ほぼ最後尾に並んだのだから、これも仕方ない。
というか、もともと来るつもりすらなかったのだ。
文句など言えた義理ではないことは重々承知していた。
「見えにくいね。真ん中辺りの関係者席が空いてないか、訊いてこようか? 」
大河内が突然、今までの沈黙を打ち破り、とんでもないことを言い放つ。
関係者席など、一般人のわたしには縁遠い席なのに、学生の分際であるはずの大河内に何か心当たりでもあるのだろうか。
「あのね、ここ、僕のバイト先なんだ。特に休日は各種のコンサートなんかもあって、たとえ学生アルバイトであっても、結構役に立つんだよ。ここの主任も館長もよく知ってるので、もうちょっとましな席に替えてもらえるよう頼んでみるよ……」
席を立ちかけた大河内の腕を引っ張り、ギリギリのところで彼を引き止めていた。
そこまでして、特別扱いを受ける理由は何もない。
もう本当に、これ以上ことを大げさにしないでと声を大にして叫びたい衝動に駆られる。
すると、ちょうどタイミングよく館内放送が流れた。
もうすぐ開演しますというお決まりのアナウンスだ。
大河内も諦めたのか、さも不満そうな表情を浮かべながら着席し、おもむろに腕を組んだ。
遥ならいつものことだけど、大河内でもこのような大人げない態度を取る事があるんだと思いながら、そんな彼にちょっぴり親近感を持ってしまった。
わたしは不機嫌な大河内を尻目に、アナウンスの指示通り携帯の電源をオフにし、とにかく無事に映画が終了することだけを祈りつつ、シートに上半身をもたせかけた。
上映前にスポンサーと配給元関係者の簡単な挨拶があり、そのあとすぐに映画が始まった。
しぐれさんが演じるヒロインが育ての親との確執を経て人生を翻弄される物語。
すれ違いを繰り返し、ようやくつかんだ幸せとかけがえのない大切な人。
なのにそれはひと時の夢に終わり、最後は壮絶な死を遂げるという、悲しくも美しい純愛ストーリーだった。
エンドロールが始まる頃には、あたりからはすすり泣きの声が聞こえ、わたしも手に握ったハンカチはすでに乾いているところがないほどにびしょびしょになってしまっていた。