73.歯車の軋み その2
わたしはパチパチと瞬きをして、見間違いじゃないかとその文章を何度も何度も読み返した。
メール上のことだし、言葉の弾みと言われれば、そうとも受け取れる。
でも、だからと言って、わたしのことを柊と呼び捨てにして、大河内はいったいどういうつもりなんだろうと、不信感しかない。
特に重要事項が綴られているわけでもなく。
保存しておく必用もないだろうと即時に判断した。
遥に見られないうちに、大河内のメールを削除する。
心臓がドキドキと鳴る。わたし以外誰もいないのに、部屋の中をきょろきょろと見回した。
遥にこのことが知られたら、やなっぺの怒りどころの騒ぎではないだろう。
今遥から電話がかかってきたら、わたしが動揺してることなど、すぐにバレてしまうほど、身体まで震えるありさまだ。
そしてここに舞い戻ってきた遥に、すべて洗いざらい白状させられるのだ。
それを回避するには、先手必勝、あの方法しか残されていない。
わたしは遥に宛てて、大急ぎでメールを送った。
二日酔いはすっかりましになったことと、しぐれさんや小百合さんに会ったことをやなっぺに知らせて驚かせたことを、カラフルな絵文字まで組み入れて、何事もなく元気にしていることをアピールしてみた。
もちろん、遥に早く会いたくてたまらないことと、今度はいつ会えるのという文章を組み込むことも忘れずに……。
もう寝ようとベッドに腰をかけ、遥からの返事も諦めかけた頃、ようやくメールが届いた。
仕事の打ち合わせが長引いて、携帯を見るのが遅くなったらしい。
でも、わたしに秘密のプレゼントがあるから、楽しみにしておくようになどと記してある。
そして、今夜は遅くなったので、ここには来ないらしい。
わたしは不謹慎にも、ホッと胸を撫で下ろした。
大河内の件で動揺した姿を見られずに済むからだ。
でも秘密のプレゼントって、どういうことだろう。
何かサプライズ的な贈り物をくれるとでも?
遥らしからぬメールにわたしはしばし首を傾げる。
こんな後ろめたい気持ちの時に限って、遥からのプレゼントの予告だなんて、本当に悪いことはするものではない。
こそこそと別の男とコンタクトを取っている事への罰が降りかかって来たようで、居ても立ってもいられなくなる。
プレゼントの真相が気になって仕方がないので、折り返し遥に問い合わせるも、秘密だから今は言えないとしか返ってこない。
後日メールで詳細を知らせるから、少し待ってとだけ書いてある。
秘密と言われると、めっぽう弱い。
何かわたしを喜ばせようと計画してくれているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
でも、後ろめたい。
二つの感情で、心がバラバラになりそうだ。
けれど。
遥に内緒で大河内と連絡を取り合ってはいるけれど。
彼を裏切っているわけではない。
大河内との今後の接触を絶つために、行動を起こそうとしているだけなのだ。
しぐれさんの主演作品へのリスペクトも含めての、正義ある行動だ。
わたしは悪くない。
そう思うことで、次第に心が軽くなって行く。
大河内への返却が完了することで、全てのしがらみから放たれ、堂々と生きていけるのだ。
もう何も心配することはない。
遥のプレゼントのことだけを考えればいい。
どんなプレゼントなのだろう。
洋服? それとも、アクセサリー?
本かもしれないし、洋菓子かもしれない。
たとえ小さなメモ帳やシールだったとしても、彼が準備してくれる物なら何だって嬉しい。
もしかしたら、ディナーの誘いかも。
それならば彼の誕生日も近いことだし、その場で逆に彼を喜ばせるようなサプライズを用意しておくのはどうだろう。
ああ、なんか幸せだ。
この幸せな状況に比べれば、大河内のことなんて、とても些細な事に思える。
胸をときめかせながらベッドに入り、秘密のプレゼントのことだけを考えてそっと瞼を閉じた。
そして、二日後。
ついに大河内との約束の日がやってきたにもかかわらず、遥からのメールは夕方になっても届かなかった。
わたしは、いつもの喫茶店『ロラン』でダージリンティーを注文して、大河内の連絡を待っていた。
このまま大河内が約束を忘れてくれたらいいのになどと思ったりもしながら、中原中也の詩集を開く。
いつもより時間がかかってようやく運ばれて来た紅茶に、普段は入れない砂糖を軽くスプーン一杯だけカップに入れて、ほんのり甘い紅茶を口に含む。
甘さだけは感じるけれど、香りまで楽しむゆとりはなかった。
変な汗がこめかみを伝う。
昨日までは、遥の秘密のプレゼントで浮かれ気分だったのだけど、今朝はそうはいかなかった。
目覚めるなり、携帯ばかり見てしまう。
大学でも、テストだと言うのに、カバンの中の携帯ばかり気にしていた。
紅茶を全部飲み終えた時、ポケットの中の携帯がブルブルと振動するのがわかった。
多分、大河内からだ。
大学を出るのが遅くなったので、ここまで来ると上映時刻に間に合わなくなると大河内が知らせて来たのだ。
慌てて詩集をカバンに仕舞い、店を出る。
大河内の指示通り、試写会場のあるここから五つ先の駅に向うことにした。
彼に指定されたその駅は、これまで一度も立ち寄ったことのない未知の場所だった。
高層マンションが立ち並び、ファミリー層が多く暮らす街だ。
雑誌で紹介されるおしゃれなカフェやブティックも多いと聞く。
わたしは約束の本屋の前で、大河内が現れるのを待った。
この時、わたしの心の奥にある歯車が微かな音を立てて軋んだのを、とうとう気付くことはなかった。




