72.歯車の軋み その1
電話でやなっぺと話し始めて、もう二時間くらい経つ。
午後のバイトの時刻がじりじりと迫ってくる。
どうにか話の途切れ目を見つけると、今度はわたしがやなっぺの家に泊まりに行くから、その時に続きを話すねと言って、やっと電話を切ることに成功した。
わたしの方からかけておきながら無理やり切ったみたいで悪かったけど、これもバイトがあるので仕方がない。
やなっぺだって午後から大学に行くと言っていたが、間に合うのだろうか。
今ごろになって心配になる。
最後にやなっぺは、くれぐれも大河内の映画のチケットの件だけは、妙な出来心を起こさないようにとわたしに忠告するのを忘れなかった。
大河内に何を言われても、無視すること……。
そうなんだ。それなのよ。
しぐれさんとまさかの出会いがあって、なんとなくお互いに親しみを感じてしまったのは夕べの思いがけない出来事。
なのに、彼女が一生懸命取り組んだ主演映画のチケットを、わたしは大河内にもらったという理由だけで無駄にしようとしている。
やなっぺが言うことにも一理ある。大河内にこれ以上深入りするなと警告してくれているのだ。
でも……。
だからと言って、しぐれさんの映画をこんな形でないがしろにするなんて、わたしにはできない。
バイトにチケットを持って行って、もしも大河内が店にやって来たら、都合が悪くなったと言って返すべきではないだろうか。
それが大人の礼儀というものではないかと思うのだ。
わたしはカバンにチケットと借りた本を入れ、何が何でも大河内にそれを返すんだと息巻きながらバイトに向った。
その夜、やはりというか、当然と言うか。
大河内はバイト先に現れなかった。そんな都合のいい話があるわけがないのだ。
家に帰ってテーブルの上に並べたチケットを眺めながら、どうしようかと思案すること三十分。
いっそのこと彼の携帯に連絡を入れて、どこかで待ち合わせをして返すべきではないだろうかと、もうすでにやなっぺとの約束を破りそうになる。
あれほどやめておけと言われた待ち合わせだけれど。
映画の上映日である明後日はもう目の前に迫っていた。
もたもたしていたら、本当にこの貴重なチケットが無駄になってしまうではないか。
しぐれさんが青春の日々を託して一生懸命演じた作品が、わたしの決断力の鈍さで無残にも踏みにじられようとしているのだ。
とにかく、早くどうにかしないと上映日に間に合わない。
でも、どうすればいい?
ようやく導き出した答えは、携帯で大河内から家の住所を聞き出し、小包で送り返すという古典的な方法だった。
これなら待ち合わせをしなくてもいい。
顔も合わせないし、お互いの気まずさも最小限で済む。
やなっぺも、わたしがしぐれさんと仲良くなったことを知っているのだから、チケットを無駄にしないためにも、これくらいは多めにみてくれるのではないかと、自分にいいように解釈し始める。
どうしてこんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう。
借りた本にはさんであるしおりを見ながら、間違えないように大河内のアドレスを携帯に打ち込む。
急に映画に行けなくなったことと、チケットと本を返したいので住所を教えて欲しいと要点だけまとめた短いメールを送った。
五分くらい経って、彼から返信があった。
わたしは紙とボールペンを用意して、住所を書き写す気満々で大河内の返信を画面に表示させる。
メール、ありがとう。
僕は、大学のテストと
アルバイトが詰まっていて、
明日もあさっても
遅くまで家に帰れないんだ。
だから郵便小包は受け取れない。
ごめんね。
定型外郵便のポスティングも
本の厚みが結構あったから無理だと思う。
そうだ。
あさっての五時以降なら
君の大学のそばまで取りに行ける。
それでどうだろう。
君もテストなんだよね、きっと。
こんな時に映画のことなんか持ちだして
本当に悪かったと思ってる。
そして、誰か他に行けそうな人を
あたってみるよ。
詳しいことはその時にメールするね。
柊からのメール、嬉しかったよ。
ありがとう。
では、また。
わたしはその文面を見て、ボールペンをポトリと紙の上に落としてしまった。
あさって……。大河内が、大学までチケットと本を取りに来ると言っている。
ど、どうしよう。大変なことになってしまった。
これって、絶対によくない状況に足を踏み入れている気がする。
でも返すと連絡を入れたのはわたしだ。大河内は何も悪くない。
さて、困った。
もしもこのことがやなっぺに知られたら……。きっと激怒される。
そして、遥に全て報告されるだろう。
あたしのアドバイスを聞かないのなら、柊の勝手にすればいいと言って、絶縁覚悟でそっぽを向かれるのは目に見えている。
それより何より、柊からのメール、嬉しかったよって、いったいどういうことだろう。
断りのメールに感謝されるなんて、不気味すぎる。
さりげなくとんでもない言葉をメールの文章に忍ばせていることに、恐怖しか感じない。