7.こんなに好きなのに
彼と同じ大学に在籍しながら、偶然でしか会えないだなんて、もう世も末なのかもしれない。
仮にも結婚の約束までした恋人同士だというのに、この心もとない不安感はどういうことだろう。
彼も同じ思いを抱いてくれているのだろうか。
だからこそ、一緒に住もうと言ってくれたのだと信じたい。
大学に入ったばかりの頃は、毎晩のようにわたしのアパートで一緒に食事をして、ビデオを見て。
将来の夢を語り合ったりもした。
子どもは三人は絶対に欲しくて、キャンプにも連れて行きたいなと、彼は目を輝かせて話し続ける。
わざわざキャンプに行かなくても、うちの裏山で遊べば十分だよと言っても聞く耳を持たない。
そう簡単には足を運べないような秘境に行ってこそ、キャンプの醍醐味が味わえるんだ、などとサバイバルな自論を展開する。
子どもを遊ばせるためというよりも、遥自身が楽しみたいのがありありとわかるくらい、意気揚々と熱く語っていた。
けれど、そんな幸せな日々だったのも去年の夏までのこと。
徐々に遥のサークル活動が忙しくなり、それに合わせるようにして、わたしのバイトもシフトを増やしていく。まるでいたちごっこのようにすれ違い生活に拍車が掛かる。
おまけに、ポスターデビューしてからの遥は、ますますわたしから遠ざかっていくようで、手の届かない遠い世界の人になってしまったようにすら感じていた。
今夜、彼の部屋に行こうと決めたのなら。
これしきのレポートで足踏みしてるわけにはいかない。
目と手はもちろん脳内もフル回転して、自分でも驚くくらいのスピードでレポートの下書きを仕上げ、大学に向った。
遥は大学入学後、すぐに学内の演劇サークルに入った。
もともとは役者としてスカウトされたのだが、将来の仕事はマスコミ関連志望という意思は固く、演劇サークルへの拒絶は全くなかった。
役者ではなく演出をさせてもらえるならばと、あっさり入団して、今に至る。
まだ新米の遥が本格的に演出させてもらえることはほとんどなくて、ジーンズを譲ってくれた是定先輩につきっきりで指導を受け、まだまだ修行中の身だ。
使い走りや大道具などの裏方作業はもちろんのこと、チケット販売の集計なども遥の肩にのしかかってくる。
一人が何役もこなすのは、貧乏学生サークルの暗黙の掟らしい。
理不尽なほどの忙しさも、遥にとっては全く苦ではないと言う。
何度か遥に同行してサークルに参加してみたけれど、先輩に気を遣いながら奔走している彼を見ているのが辛くなり、いつの間にか劇団とも疎遠になってしまった。
遥はわたしのことを、おもしろい文を書くやつだと言って団員に紹介していたので、時々同じ学部のひとつ年上の里中先輩から、この劇団で脚本を書いてみる気はない? と入団の誘いを受けてはいた。
里中先輩は、チケットを売り出したら即完売というメジャーなプロの劇団からも誘いがくるほど、演技にも定評のある女優志望のとてもきれいな人。
でもわたしはバイトを理由に、ずっと里中先輩の誘いを断り続けている。
劇団活動を優先すると、バイトとの両立は難しくなる。
すると、たちまち日々の生活が苦しくなるし、学校自体も続けられなくなってしまうからだ。
書くことを活かせる場としては大いに魅力を感じているのだけど、学業との両立もかなり大変そうだし、そもそも、あまり華やかな世界は苦手だと思うこの性格が足かせになってしまい前に進めない。
高校時代の学業成績がずば抜けてよかった遥は、その蓄えが功を奏したのか、どんなに忙しくても単位を落とすことはなく、成績もAがいっぱい並ぶほどの優秀さを見せつけてくれている。
片や、レポートをきちんと提出して、夜も寝ずに必死に勉強してテストに望むわたしの成績は、なぜか見るも無残な結果で、語学以外はほとんどBかC。落とした単位も二つある。
背伸びをして入った大学は、高校のように簡単にはいかない。
一緒に講義を受けている学生たち全員が、遥のように優秀な人に見えてしまう、というか、実際かなり優秀な人ばかりだと感じる。
教授の投げかけた理解不能な質問であっても、間髪いれずに正答を述べる仲間が神のように見えるのにも、哀しいかなもう慣れてしまった。
遥は今夜、何時ごろに帰ってくるのだろう。
午後の講義も上の空で過ごし、夕方五時から引き受けている近所の小学生相手の家庭教師のアルバイトを七時に終わらせると、電車に飛び乗って遥のマンションに向った。
両手にはパンパンに膨らんだスーパーの袋。今晩の夕飯の材料だ。
食べるのは二人だけなのに、あれもこれもと、気付けばカートの上のかごが山盛りになってしまった。
調味料だって、遥がすべて揃えて持っているとは限らない。
七味にぽん酢に柚子胡椒、いりごまや白だしも必要不可欠だ。
それに……。朝食の材料も買ってしまった。
鮭の切り身に海苔に卵。塩蔵わかめに油揚げも。
これは遥に知られると恥ずかしいので、わたしが家で食べるものだとでも言っておこう。
遥の部屋に泊まる気満々だなんて、思われたくない。
でも、さっきからにやけてしまうのはなぜだろう。
ネギの先っぽが飛び出したスーパーの袋を持つ自分が、ちょっぴり誇らしく思えるのだ。
今までにも何度も訪れた彼のマンションは、わたしのアパートよりは少し築年数が浅い。
遥もわたしと同じで、親の負担をなるべく軽くするため、六畳に満たないワンルームで、小さなユニットバスが辛うじて付いているだけのシンプルなここを選んだ。
けれども、夜にわたしからここを訪ねるのは初めての経験。
わたし達は一応、付き合いの長さだけは誰にも負けない自信があるけど、男と女としての関係はまだまだで、自慢できるようなものは何もない。
一度、最後の一線を越えそうになった時、わたしが頑なに拒んでからは、彼もそれ以上は求めてこなくなった。
だからと言って、彼が嫌いなわけでも、憎いわけでも、はたまた、怖いわけでもない。
彼とのとろけるような口づけと激しい息遣いの先にあるものを、おぼろげに想像することだってある。
好奇心は年相応に持っているつもりだ。
それに、胸が張り裂けそうなほど遥が恋しくなり、彼を思って一晩泣き明かしたことも経験済みだ。
最近あまり会えないからだろうか。突然声が聞きたくなって、深夜に携帯を握り締め、思い留めた夜もあった。
声を聞くと、きっとまた泣いてしまう。すると遥はすぐにでもわたしのところに来てくれるだろう。
でもわたしは……。また前のように遥を拒んでしまうかもしれないのだ。
こんなに好きなのに。遥のことが好きで好きでたまらないのに、彼のすべてを受け入れることができない。
両親や遥の家族にも内緒にしたままこっそりと付き合っていることが、心の重荷になっているのだろうか。
それとも、いつの日か遥が、わたしのもとから離れて行くのではないかと、ありもしない未来を想像して不安を抱いてるからだろうか。
いや、それはもっと現実的なことかもしれない。
そういうことの先にある妊娠を恐れている自分がいるのも事実だった。
でも……。今夜なら、そんな臆病な自分から抜け出すことができそうだ。
何も考えずに遥の胸に飛び込んでしまえば、何かが変わるのかもしれない。
わたしは遥のマンションを見上げながら、手の中にある彼の部屋の鍵をもう一度きつく握り締め、決意を新たにしていた。