69.秘められた恋心
「あたし、柊さんと堂野君がうらやましい。あなたたちには自由があるもの」
自分の膝に額をくっつけながら、しぐれさんがぼそっとつぶやいた。
しぐれさんの恋愛は、そんなに不自由なものなのだろうか。
それは、女優だからいろいろ制約があって、自由に振る舞えないからなのか、それとも、辛い恋をしているからなのか。
「あたしはね、恋人と街中でデートしたりだとか、買い物に行ったりとか。普通の人が普通にすることを何もやったことないの。おかしいでしょ? 事務所からの制限も少しはあるけど、基本、恋愛は自由なのよ。なのに、自由じゃない。矛盾だらけの世界……」
「そうなんですか? 」
「意外だった? 」
「え、ええ……」
しぐれさんが恋人とデートしたことがないというのにももちろん驚いたけど、それよりも、彼女の立場で恋愛が自由だと言うことの方が驚きだったりする。
そういうことは一切禁止されてるのかと思っていたからだ。
ワイドショーや週刊誌で大騒ぎになるのを防ぐためにも、恋愛は厳重に管理されていると考えていたのだ。
自由なはずの恋愛なのに、しぐれさんは自由じゃないと悲しそうな声を出す。
「もちろん、あからさまに付き合ってるのを公表するのはダメだけど、仕事に支障がなければ大目に見てくれるって感じかな。でも、どんなに変装しても、すぐにバレちゃって。行った先々のお店や公共の場でかなり迷惑かけちゃうのよね。あたしのやってる仕事、見かけは華やかだけど、実際は楽じゃない。それを三十年以上続けてきたおばさまってすごいと思う。でも、雄ちゃんの性格はあんな風にねじ曲がっちゃったけどね……ふふふ」
しぐれさんの話は、やっぱり本田先輩のところに舞い戻る。
しぐれさんが先輩を好きだというわたしの推測は、かなり信憑性が増してきたのかもしれない。
本田先輩のことを話すしぐれさんはとても自然で、かわいらしい少女のようにも見える。
「本田先輩の性格と小百合さんが、何か関係があるの? 」
わたしは謎が多すぎる本田先輩のことを知りたくて、しぐれさんに訊ねてみた。
あんな風にねじ曲がっちゃったけどと言っているのは、きっとわたしが苦手だと思っている本田先輩の性格のことだと思う。
いついかなる時でもポーカーフェイスで、無口で。そして、無愛想。
確かに、本田先輩は、付き合いにくい部類の人だと思う。
少し前までは放蕩生活を送っていたし、極力人との関わりも避けて通るような、一匹狼のような存在だった。
唯一、サークルの代表の是定先輩と遥にだけ心を開いていたように思う。
そうなったのは、伊藤小百合のせいだとでも言うのだろうか。
「最近は少しましになったけど。でも、雄ちゃんって、ちょっと変わってるでしょ? 」
「ま、まあ……。ほんの少しだけ」
いくらしぐれさんに同意を求められたからって、はいそうですねとは言いにくい。
それに、全面的に肯定してしまうと、そんな変わった性格の本田先輩と付き合える遥もまた、変人だということになってしまう。
「わたしが女優の道を歩みだしたのは、おばさまに頼まれて臨時の子役を引き受けたのがそもそものきっかけなの。そして、そんなおばさまに反抗し続けたのがあなたの先輩である本田雄太郎。あいつは芸能界が大嫌いなの。母親であるおばさまを奪い取られた芸能界を仇のように恨んでいた」
しぐれさんが膝を抱えていた手をほどいて、ラグに後ろ手をついた。
天井を見上げ、遠い昔を思い出すような目で、自分や小百合さんのこと、そして、本田先輩のことを語り始めた。
「ほんとはね、その子役……。雄ちゃんがおばさまと親子共演する予定だったのよ。頑固なあいつは最後まで出るのは嫌だって拒んじゃって。で、急遽あたしがやることになったの。世の中って不思議よね。何がどう人生を変えるかなんて誰にもわからない。でもね、雄ちゃんったら、今頃になってこっそり演劇やってるんだもの。テレビにもエキストラ出演してるって言うじゃない? 誰も伊藤小百合の息子だって知らないのよね」
わたしも遥に聞くまでは、伊藤小百合が先輩の母親だってことは全く知らなかった。
大学でも誰も気付いていない、というか、小学部からいるのだから、知っている人も敢えて話題にしないくらい、徹底的に本田先輩は華やかな世界からは距離を置いて来たのだろう。
「あれだけ芸能界全般を嫌がってたのに……。変なヤツ。一度、おばさまとこっそり、大学のサークルの舞台を観に行ったの。なら、どう? すっごくヘタだった……。もう、ありえないくらいにね。周りにバレないうちに、暗がりの中、途中ですごすごと帰ったわ。ふふふ……。これでは百歩譲っても、伊藤小百合の息子だってことは誰にも言えないわねえって、おばさまと大笑いしちゃった」
そうだったんだ。だから反抗して、家にも帰ってなかったことにも納得がいく。
有名な母親がいていいな、なんて思ったりもしたけど、本人にしてみれば、辛いこともいっぱいあったに違いない。
伊藤小百合があれだけテレビに出ていたってことは、先輩が子供の頃、おかあさんはほとんど家にいなかったことになる。
普通の仕事と違って、ロケで何日も帰って来ないなんてことも、日常茶飯だったのだろう。
寂しい思いをしていたのかもしれない。
その時ふと、遥と妹の希美香、そして先輩の姿がだぶった。
希美香はこの前の騒動で家族会議になった時、小さい頃、おじさんもおばさんも仕事で家にいなくて寂しかったと言って涙を流していた。
おばさんの仕事はとても忙しくて、女性であっても長期出張もあったし、夜中まで残業なんてのも珍しくはなかった。
遥は何も言わないけれど、我慢していただけで、実は彼も希美香と同じ思いだったのかもしれない。
だとすると、遥が先輩と親しくなったのもわかるような気がする。
幼少の頃、同じ思いを体験した者同士が通じ合う何かがあったのかもしれない。
「しぐれ、誰が大笑いしたって? あることないこと、蔵城に入れ知恵してるんじゃないぞ」
氷や飲み物をトレイに載せて、先輩と遥がやっと戻って来たのだ。
「だってあなたたち、戻って来るのが遅いんだもの。雄ちゃんのあんなことやこんなこと。いっぱい柊さんに教えてあげたから。柊さん。この人に意地悪されたら、あたしの言ったことを言い返してあげるといいわ」
「あっ、はい」
わたしはしぐれさんに向かって、遠慮がちに、けれどしっかりと頷いて見せた。
「おいおい。何を吹き込まれたか知らないが、しぐれの言うことはでたらめばかりだ。蔵城、今すぐ全部忘れてしまえ」
「は、はい」
わたしは先輩に向かって、慌てて返事をする。
「あーー。ひどいっ。柊さん、忘れちゃだめよ。こいつをそのうち、ぎゃふんと言わせてやるのよ! 」
「あっ、はい、わかりました」
二人の言うことが冗談だとはわかっていても、年下で後輩のポジションであるわたしは、両者に従うしかない。
あっちを立てればこっちが立たず。
こんな時こそ遥の出番だ。
そんなところに突っ立てないで、何とか言ってよ。わたし、どうすればいいのだろう。
先輩としぐれさんの言い争いというか、じゃれ合いの様子をやれやれと言うような顔をして眺めていた遥が、わたしにだけ見えるように、お手上げのポーズを取る。
「しぐれ、今夜の喧嘩はこれくらいにしておこう。お客さんに申し訳ないだろ? 」
「はいはい、わかりました。じゃあ、一旦休戦ってことで」
「それに俺の腕、酒とグラスの重みで、かなりしびれて限界に近付いているんだが。ここに下ろしてもいいか? 」
本田先輩がトレイを載せた手をわざと大げさに震わせて、そう言った。
「うん。じゃあ、ここに置いてくれる? 」
しぐれさんがポンポンと、わたしと彼女の間にあるすき間を叩いて場所を示す。
二人のあうんの呼吸に、なんだかホッとするわたしがそこにいた。