67.女優の横顔 その1
「急にお誘いしたのに、今日はわざわざいらして下さって、どうもありがとう。堂野君や柊さんに会えて嬉しかったわ」
やさしい香りのするしぐれさんが、わたしのすぐそばでふわりとした女神のような笑顔を見せる。
「こ、こちらこそ。お招きいただいて、ありがとうございました。お料理もとてもおいしかったです」
こういう時、どのように返事をしたらいいのか全くわからなくて、自分の指先を見つめながら、無意識に何かを口走るような、そんな返答だったと思う。
言い終わった瞬間にすべての言動を忘れてしまうほど、どうしようもないくらいに舞い上がっていたのだ。
「ふふっ、よかった。でもあたしなんて、おばさまの言うとおりに切ったり混ぜたりしただけ。お吸い物だけよ。一人で作ったのは」
「でも、本当においしかったんです。何もかも、全部! ……あっ、ご、ごめんなさい。つい、興奮してしまって」
あまりにも勢いに任せて声を出してしまったものだから、慌てて口をつぐむ。
わたしったら、いったい何をやっているのだろう。
いつもテレビの画面の中でしか見たことのない人が、すぐ目の前にいる。
それも、しぐれさんが手を動かせば、ブルーのカットソーの袖がわたしの腕をすっとかすめるくらいそばにいるものだから、どきどきし過ぎて、今にも口から心臓が飛び出しそうな状況で、自分をうまくコントロールできないのだ。
「そこまで褒めていただいて、なんだか照れちゃうわ。毎日、仕事仕事で、ゆっくりお料理してる時間はないけど、作るのは好きなの。あたしもおばさまみたいに、いろいろ作れるようになりたいって思ってるわ。今は一人暮らしだし、誰にも食べてもらえないでしょ? だから今夜は柊さんや堂野君、雄ちゃんにも食べてもらえて、なんだかとっても幸せな気分よ」
しぐれさんの言葉に偽りはないと思う。頬を幾分紅潮させ、瞳を輝かせて微笑んでいる。
「あの、わたしも、とても幸せです。だって、まさかしぐれさんにお会いできるなんて、思ってもみなかったから。まだ本当のこととはとても思えなくて……」
目の前に本物の雪見しぐれがいるというだけでも夢心地なのに、こうやって旧知の仲のように隣同士に座って、ましてや二人っきりで話までしているだなんて、これが現実なのだと言う方が無理がある。
もしわたしに運というものがあるのなら、一生分を今ここで使い果したんじゃないかと思えるくらい、最高の幸福感に浸っている。
「そんなに堅くならないで。あたしだって仕事を離れれば、どこにでもいるただの二十一の女の子よ。友達といっても、この世界ではうわべだけの付き合いがほとんどで、心から打ち解けることのできる人なんてごくわずか。今度一緒に食事でも、って誘われても、現実になるのはまれで。そうだわ。ねえねえ、柊さんさえ良ければ、これからもこうやってお話がしたいんだけど。だめかしら? 」
「ええ? ……と、とんでもないです。わたしでいいんですか? わたしなんて、これと言って取りえもないし、おもしろくもなんともなくて。しぐれさんに申し訳ないです。でも、そう言っていただけて、嬉しい。夢みたいです。だって、わたし、昔からしぐれさんのファンだったんです……」
ああああ……。どうしよう。
社交辞令で言ってくれただけなのに、わたし、すっかり本気になってしまっている。
変な子って思われなかったかな。
なんてあつかましくて気の利かない子なのって言われたらどうしよう。
ああ、もうこうなったら、どうなってもいい。
しぐれさんが本気でわたしに会いたいと思ってくれるなら、毎日でも会いに来てしまいそうだ。
わたしは背筋をピンと伸ばして、しぐれさんを真っ直ぐに見た。
「あら、やだ。そんなにかしこまらなくていいのよ。ね? 柊さん。力を抜いて! 」
今までに知らなかったしぐれさんの一面を見るようだった。
ドラマや映画では勝気なヒロインの役を演じることが多かったせいか、しぐれさん自身も、凛とした無口な人だと思っていたのだ。
しぐれさんがその細い腕を伸ばし、わたしの肩にふわっと手を載せる。
そして、わたしがリラックスできるように、肩をポンポンと軽く叩いてくれた。
「でも、あたしのファンだなんて、嬉しいわ。同じ年頃の女性にそう言ってもらえると、男性に言われるよりハッピーな気分よ」
彼女のやや丸い形をした唇が、まるで少女のようにぷるぷると揺らめく。
そうか。絶世の美女であるはずのしぐれさんが、どことなく親しみやすく感じるのは、この唇のせいじゃないかとふと思い当たる。
テレビの画面からは伝わってこなかった新たな発見だ。
「柊さん、あたしね、今月の半ばまでドラマの撮影で、ずっと休み無しだったの。その前は、今度上映される映画の撮影で、半年間休みなし。映画の仕事は長丁場だから、クランクアップするまではほとんど外界との接触がなくなってしまうのよね。もう完全に浦島太郎状態よ」
体操座りのように膝を抱えて身体を前後に揺すりながら、しぐれさんがおもしろおかしく仕事について語り始めた。
「そしたら雄ちゃんのところに、あのちまたで話題の堂野遥が来てるって言うじゃない。もう居ても立ってもいられなくなって、おばさまにお願いしたの。そして念願かなって、今日会えたってわけ。想像通りの素敵な人だったわ。ねえねえ、柊さん。彼、きっとこの世界で成功するわよ」
「そ、そうですか? や、あの。わたしにはよくわからなくて……」
まさかとは思うけど、しぐれさんともあろう人が、遥に何か特別な感情を抱いているのではないかと思わせるくらい、熱く遥の事を語っている。
いや、でも、そんなはずはない。今日初めて会ったばかりなのに、見知らぬ同士がそこまで瞬時に心を通わせることは無理だと思う。でも……。
遥のことを話す時のしぐれさんの生き生きとした表情を見れば、全くないとも言い切れない。
こういう場合、どうしたらいいのだろう。
「あっ、やだ。誤解しないでね。あたしの言い方も悪かったわね。んもうっ、柊さんったら、そんなに不安そうな顔をしないで。確かに堂野君は素敵だけど、あなたの彼氏だってことは十分承知してるから手出しはしないわ。あたしこれまで、年下の男の人とうまくいったためしがないの。だ、か、ら……。安心してね、ぷっ! 」
突然笑い出したしぐれさんと目が合ったとたん、わたしまでどうしようもなくおかしくなって、お互いの肩を叩きあいながら心ゆくまで笑いころげた。