65.女優と母親と祭り寿司 その1
「おばさま、お待たせ。しいちゃん特製のお吸い物も完了よ! あ、ごめんなさい。もう皆さん、おそろいだったのね」
調理場から食事室に入ってきたその人は、わたしたちを見るなり、あわてて白いレースのエプロンをはずそうと身をよじった。
そして……。
「はじめまして、本田しぐれです」
まだ随分若いその人は、落ち着いた物腰であいさつをして顔を上げた。
「あ……」
「え……? 」
わたしも隣に座る遥もその人を見たとたん、息を呑む。
そんな……。ありえない。なんで、この人が、ここに?
「驚かせてしまってごめんなさい。雪見しぐれは芸名なの。わたしも本田家の一員なのよ、ふふふ……」
明るめのブラウンのロングヘアを無造作に束ねたその人は、間違いなく、あの雪見しぐれだった。
昨日、大河内にもらったチケット……。
その映画の主人公を演じているのが、今目の前にいる雪見しぐれなのだ。
真っ白な首筋にまとわりつく数本の後れ毛を気にしながらも、驚いているわたしたちを気遣うように、にっこりと微笑みかけてくれる。
ブルーのカットソーにオフホワイトのチノパンツ姿の彼女は、ありえないほどの長い足をおしげもなくわたし達の面前にさらしながら、まるでモデルウォークのようなきれいな歩き方でテーブルに近付き、スマートな身のこなしで席に着いた。
「堂野君も柊さんも。今日しいちゃんがここに来てること、知らなかったのね。ねえ、雄太郎。あなた、お客様に何も言ってなかったの? 」
伊藤小百合……いや、先輩のお母さんが、訝しげに本田先輩に訊ねた。
「ああ。別にいいだろ? ここに来ればわかることだし……」
先輩はそ知らぬ顔をして、テーブルの上のおしぼりで手を拭く。
「もう、ホントにこの子ったら。何でこんなに気が利かないのかしら。堂野君、こんな息子でごめんなさいね。なのにこの子を慕ってくれるあなたに、いつも申し訳なくて……」
「い、いえ。そんなことないです。小百合さんのご好意でこちらに置いていただき、先輩には常々感謝しているんです」
さ、小百合さんって……。
まさか大女優に向かって、おばさんって呼ぶわけにもいかないし、遥も考慮した結果そう呼んでいるのかもしれないけれど。
それにしても、遥ときたら自分のことを僕とか言ってるし、顔つきもいつもと違う。
広い家でのびのびと暮してうらやましいなんて思ったけど、彼なりにいろいろと気を遣ってるのかもしれない、などと思いを巡らせる。
「堂野君……。そんな風に言っていただけるなんて、どうしましょう。ありがたいわね。ここにはずっといてもらってもいいんだから。遠慮しないでね。では、改めて紹介させていただこうかしら。こちらは私の夫の姪で雄太郎の従妹の本田しぐれ。多分……ご存知よね。前から堂野君に会いたいってこの子が言ってたんだけど、仕事の都合でなかなかここに来れなくて……。ようやく時間が取れて、今朝から駆けつけてくれてるの。いろいろと手伝ってもらったわ」
目の前でにこやかに笑顔を交し合う伊藤小百合と雪見しぐれ。
これは、夢? きっとそうに違いない。そんなことあるわけないもの。
この数ヶ月でいろいろなことに直面し過ぎて、意識が混乱してるだけだと思いたい。
もう一度まばたきをして、目を大きく開けたら、誰もいなくなってるかもしれない。
そうに決まっている。わたしの思い過ごしに他ならない。
「……ぎ、……らぎ。おいっ、柊! しっかりしろよ」
「へっ? あ……」
遥に肩を揺すられてようやく我に返ったわたしは、ご馳走を前に、目を開けたまま意識を飛ばしていたことにやっと気付いた。
その間、わたしはいったいどんな顔をしていたのだろう。
初対面の人の前で、そんな情けない姿を見られていたのかと思うと、想像しただけでも恥ずかしくて、顔から火が出そうになった。
もう一度目の前の現実を受け入れようと、向かいに座る二人をしっかりと視界に収めた。
「うふふふ……。柊さんっておっしゃるのね。堂野君の彼女かしら? とてもきれいな方。学生さん、よね? もしかして、高校生? 」
顔中が目なんじゃないかと思われるくらい、大きくて澄んだ瞳のしぐれさんが、わたしに向って訊ねる。
高校生って……。違うんだけど、頭ごなしに否定するわけにもいかない。
わたしは、懇願の眼差しで遥を見た。遥、お願い。助けて……と。
すると、本田先輩がケタケタと笑い出し、あのなあ、しぐれ、と身を乗り出した。
「この人、これでも大学生。俺のひとつ下の学年。と言っても、俺は早生まれだから、同い年のはずだ。蔵城、そうだろ? 」
「あ、はい。そうです。わたし、こんなだけど、大学生……なんです。本田先輩の後輩になります」
って、今の本田先輩のカミングアウトの方がびっくりだ。
学年こそ先輩だけど、実は同い年だっただなんて……。ショックすぎる。
「そうなの? 柊さん、ごめんなさいね。だって、あまりにも純粋そうで、かわいらしい様子だから、お若いのかと思っちゃった。そして、こちらが堂野君よね。スタッフの間でもあなたのことでもちきりなのよ。きっといつかはメジャーになるって騒いでる人もいるわ。あたしも、たまたま休憩の時に見てたワイドショーであなたのことを知って。それからずっと気になってたの」
「あっ、そうですか。光栄です。本田しぐれさん、これからもよろしくお願いします」
遥はその場で立ち上がってすっと手を出し、しぐれさんに握手を求める。
「こちらこそ、よろしくね」
そしてしぐれさんが今度はわたしの方を向いて同じように手を伸ばしてくる。
突然の振る舞いにたじろぎながらも、なんとか立ち上がり、しぐれさんの手をそっと握った。
細くてしなやかなその手は、とても柔らかくて、すべすべしていた。
中学生の時からあこがれていた雪見しぐれが、わたしに笑いかけて、握手をしてくれているのだ。
気の利いたあいさつひとつすら交わせない不器用なわたしは、握手が終わってもしばらく呆然として、しぐれさんをぼんやりと見ているのが精一杯だった。