64.トップシークレット その2
「うちのお袋。高校卒業して、それからずっと休まずに仕事を続けてきたからな。俺を生んだ後、一ヵ月間だけ休んだのが最初で最後の休みだったと言ってた。今やっと念願の長期休暇が取れたって嬉しそうにはしゃいでいるよ。俺も、ずっと親不孝者だったから、ちょっとくらいは見逃してやろうかと。だから、くれぐれも、元気だったとか、今の状況を外部に言わないでやって欲しい。仕事のオファー、すべて断ってる状態だから」
「でも、お元気で何よりです。そんな、お休みもなくずっと働いていらしただなんて、やっぱりすごいです。尊敬します」
「子どもを産んだだけでもハンディらしいからな。その間に、ライバルにどんどん追い抜かれたそうだ。以後は、母親役ばかりだったとよくこぼしてた」
そうだった。先輩を見ているとつい忘れそうになるけれど、先輩のお母さんは女優だ。
それも、とても有名な女優さんだ。
「まさか先輩のお母様が伊藤小百合さんだなんて……」
「信じられないだろ? 」
「い、いや、そんなことは」
わたしがピンチに追いやられているというのに、遥ときたらにやにやしているばかりで、ちっとも助けてくれない。
そりゃあもちろん、信じられないけど、それは先輩が嘘を吐いてるとかそういうのではなくて、夢みたいだと言いたかっただけなのに。
「俺とお袋は、あまり似てないだろ? だから必ず本当に親子なのかと疑われるよ。俺は父親似だからな。それに子供の頃以降、一切家族はマスコミに出てないから、余計に俺がよそ者みたいに見えるらしい。まあ、そのおかげで外で自由にふるまえるってのもあるけどね。嘘かと思うかもしれないが、俺、小学生の頃まで伊藤小百合とお袋は別人だと思ってたんだ。堂野はもう知ってるけど、これから会う伊藤小百合の正体も他言無用。くれぐれもトップシークレットということで」
せ、先輩。どさくさにまぎれて、ウィンクなんてしないでください!
ああ、びっくりした。
やっぱり先輩の母親は、あの伊藤小百合なんだ。
よく見れば、口元とかが、似てないこともない。
それにしてもトップシークレットって、どういう意味だろう。
母親と伊藤小百合が別人だと思っていたということは。
家での伊藤小百合は、とても公言できないほどだらしないとか、口が悪いとか、そういうことだろうか?
ああ、気になる。どんな伊藤小百合が待っているのだろう。
「さあ、もたもたしてると、お袋がうるさいぞ。早く行こう」
先輩が先陣を切って、ゲストルームを後にする。
絨毯敷きの長い廊下をぐんぐん歩いていく。
多分突き当たりの扉の向こうに伊藤小百合が待っているに違いない。
イブニングドレスを身にまとい、髪をアップにして、耳元にはパールのイヤリングが上品な輝きを放ち……。
そして、さっきの執事さん風の男性やメイドさんなんかもいたりして、きっとそこはもう一段と別世界な空間が私たちを迎え入れてくれるのだ。
緊張感がピークに達してきて、頬が引き攣るのがわかる。
心臓の音も、ありえないくらいの大音量で鳴り響き、屋敷中にこだまするような錯覚に陥る。
右手と右足が同時に前に出るようなぎこちない歩みになり、思わず遥にしがみついてしまった。
レリーフの施された重厚な扉が開かれ、真っ先に目に飛び込んできたのは大きな大理石のテーブル。
そして、そして……。
こぼれんばかりの笑みを湛え、腕を大きく広げて出迎えてくれたのは。
「まあ……。よくいらっしゃったわね。ええと、ええと……。柊さんっておっしゃるのよね? あっらあ、かわいらしい方じゃない。ほらほら堂野君もそんなところに立ってないで、座って座って」
わたしはそのおばさんに腕を引っ張られて、部屋の中に無理やり引き込まれた。
この強引で朗らかなおばさんは、いったい誰?
え?
ええええっ!
大きな光り輝く瞳をした、細くてかわいらしいこの人は。
多分、もしかすると、いや、きっと……。
伊藤小百合だ。
白いシャツとジーンズ。
そして、ウェストに小さく巻かれた、ギャルソン風のエプロン。
ノーメイクでそこにいる女性は確かに伊藤小百合のようなんだけど……。
実際は、普通のどこにでもいる、母親の姿をしたおばさん……だった。
岡山出身だという本田先輩のお母さん、すなわち伊藤小百合は、大きな寿司桶いっぱいにちらし寿司を作ってくれていた。
部屋中を見渡してみても、使用人は誰一人見当たらない。
も、もしかして。大女優であるはずの伊藤小百合が、一人で作ったとでも言うのだろうか。
「これはね、祭り寿司っていうの。岡山県人はみんな知ってるわ。ままかりっていう酢でしめた魚をのせるんだけど、いいのが手に入らなかったのよね。だからさわらで代用してみたの。あとえびと鯛もたっぷりね。しいたけもいい具合に煮含められてるし……。そうそう、天ぷらもいっぱい作ったから……。さあ、みんなで頂きましょう。しいちゃん、あなたも早くいらっしゃいな! 」
隣の調理場に向って伊藤小百合が声を張り上げた。
誰かいるのだろうか? もしかして、先輩の妹かお姉さんかもしれない。
「はーーい! すぐに行くわ」
どこかで聞いたことがあるような若い女性の声が、調理場からさわやかに響き渡った。