62.別世界へのいざない
大学の正門前を通り過ぎ、東側の住宅街に入っていく。
そこは、政財界の大御所や、各所で成功を収めた人たちが住んでいることで知られている国内有数の高級住宅街だ。
だからと言ってそこかしこに豪邸が立ち並ぶ……といったわけでもなかった。
いまだかつて経験したことのないふかふかのシートに身をゆだね、まるでどこかのお嬢様にでもなったような気分で後部座席と戯れていたのもほんの数十秒。
外の景色が気になって仕方ないわたしは、窓に鼻をすり寄せんばかりにして、後に流れていく町並みを目で追っていた。
何がそんなにおかしいのか。
助手席に座っている遥が私の方を向いて、クックックッと笑っているのだ。
「遥ったら、いったいなんなの? わたし、どこか変? 」
遥の失礼な笑い声に、カチンとくる。
運転してくれている本田先輩のことも忘れて、わたしはムキになって遥を睨んだ。
「マジで子どもみたいに無我夢中で外を見てるし。卓なみの好奇心だな。柊。ここがそんなに珍しいのか? でもな、このあたりは柊の住んでるアパート周辺とあまり変わらないぞ。期待に沿えなくて残念だな、あははは……! 」
「ひ、ひどい。卓と一緒にしないでよ。わたしは、ちがうもん。ただ、外を見てただけだもん。遥こそ、こっちばかり見てないで、ちゃんと前を向きなさいよ……あっ。ご、ごめんなさい……」
突然のブレーキに身体が前後に大きく揺れる。わたしは先輩が不機嫌になって急ブレーキを踏んだんだと思い、小さくなって謝った。
なのに、先輩ったら……。
「あんた、何謝ってんの? 信号、赤になったから、進むのやめただけだけど? まあ、遠慮なくイチャついてくれ。堂野、おまえも後ろへ行けば? 俺は別にかまわねえ」
本田先輩は前を向いたままそんなことを言って、またすぐに黙った。
冗談とも、本気ともとれる先輩の言葉にとまどってしまう。
普段あまりしゃべらない無口な先輩から、イチャつくなどと、こっ恥ずかしい言葉が出てくること事態が妙な感じだ。
もしかして、これが素の先輩の姿で、ちょっとしたジョークのつもりだったとでも?
そんな先輩に対して、謝るどころか、まだ肩を揺らして笑っている遥を見れば、一目瞭然だ。
これは先輩の軽口ということなのだろうか?
それにしてもわかりにくい。やっぱりわたしは、本田先輩が苦手だ。
「なあ、柊、もう少ししたら驚くような一角に出くわすからな。よーく見とけよ」
今度は振り向かずに、遥がわたしに話しかける。
わたしは返事もせずに慌てて窓に顔を寄せて、再び景色を追いかけ始めた。
テレビのお宅訪問番組でしか豪邸というものを見たことがないので、この目でその全容を把握しようと必死になっていた。
日本のビバリーヒルズとも言われているここ城川通りの真実を、今から窺い知ることが出来るのだ。
胸が逸る。
でもわたしの視界に入ってくるのは、マンションやコンビニ、小学校に、動物のパネルが壁一面に貼り付けられた保育園。
そして激安スーパーの看板くらいのものだ。
何一つ目に留まるようなものはなかった。
なーんだ、ちっともたいしたことないじゃん、と窓から顔を離して、ふかふかのシートに身を沈めかけたその時だった。
視野に飛び込んでくる外の異変に気付いたわたしは、目を大きく見開いて、その景色を網膜に焼き付ける作業に追い立てられる。
そこに次々と姿を現すのは、ありえないほどの大きな門構えの家、家、家。
うっそうと茂る森に囲まれた邸宅もあれば、外国の家のようにオープンな建物もあった。
ぽかんと口を開けたまま、それらを目に焼き付けていた。
何も言葉が出てこない。本当に驚いた時は言葉を失うものだと、この時初めて知った。
凱旋門かと思うほどの大きな門をくぐり、あきらかに公道ではない石畳の道を車がゆっくりと奥に進んでいく。
そしてホテルのロータリーのようなところに車が止まり、中から人が出てきた。
「お帰りなさいませ。お車はどういたしましょう」
スーツ姿の中年の男性が、本田先輩にとても丁寧な物腰で応対している。
だ、誰?
「車庫に……ああ、いい。俺が自分で置いてくるから。堂野と彼女をゲストルームに案内しといて」
「はい、かしこまりました」
遥がシートベルトをはずし、自分でドアを開けて外に出た。
そして、スーツ姿の男性にどうもと頭を下げてあいさつをしている。
先輩の家に居候をしている遥は、この人とも顔見知りなのだろう。
車の右側に回りこんだその男性が、わたしの座っている側のドアを開けてくれた。
こんなの、初めてだ。なんだか緊張する。
何かの本で読んだ記憶を頼りに、揃えた両足を先に車外に出し、最後に腰を上げる方法で降りようと試みるのだけれど。
なんだかぎこちない降り方になってしまった。
もしかして、この降り方は、着物を着たとき限定だったのかな?
慣れないことはするもんじゃないと思った。
車を降りたわたしは、何が何だかわからないままスーツ姿の男性に先導されて、遥の後をこそこそと歩いてついて行った。
「どうぞ、こちらでございます」
男性が案内してくれたのは階段を上がってすぐ横にある八畳くらいの広さの部屋だった。
そこにはソファーセットとコンソールがおいてあった。
コンソールは遥の家のリビングにもあって、珍しいものだから綾子おばさんに、これ何? と子どもの頃から何度も訊いてその家具の名まえを覚えていたのだ。
コンソールに間違いない。
綾子おばさんは、そのテーブルのような半楕円の台の上に、どこかの国で作られた磁器の花瓶を置いていた。
ここのコンソールの上には何も置いていなくて、壁にアンティークっぽい鏡がかけられていた。
まるで十九世紀のヨーロッパの屋敷みたいな雰囲気だ。
「雄太郎様がお戻りになるまで、こちらでお待ちくださいませ。すぐにお食事にご案内できるかと思いますので、当家主人の意向により、お茶の給仕は遠慮させて頂いております」
そう言って頭を下げると、礼儀正しい男性は、すーっと部屋からいなくなった。
ホテルの案内係の人みたいに、卒のない丁寧な物腰の応対に目を見張る。
「ねえ、遥……。今の人、誰? 」
その人がいなくなったのを確認して、遥にそっと訊ねてみた。
「あの人か? あの人は、伊瀬さんって言うんだ。先輩のお父さんの秘書で、この家の全般的なことを任されてるみたいだ。まあいえば、執事さんってとこかな」
「し、し、執事さん? それって、もしかして。家族じゃない人が家にいるってことだよね? 嘘みたい。信じられない。そんでもって、本田先輩は、この家のお坊ちゃまってこと? 」
「そうだ。正真正銘、この家の坊ちゃんだ。でも、これだけの広い敷地に家を構えて、人の出入りも多いとくれば、他人の力も借りないと管理しきれないだろうな。先輩のお父さんも会社役員だと聞いているし、伊藤小百合も大女優だ。警備上の面からも、周りで支える人が必要なんじゃないかな? 伊瀬さん以外にもそういった人は何人かいるよ」
「そうなんだ……。なんだかわたしたちとは別世界に住む人たちって感じだね。ねえねえ、本当にわたしがここにいてもいいのかな? 今日の服、変じゃない? もっとバッチリメイクにした方がよかった? わたし、不安だよ」
「何言ってるんだ。大丈夫だって」
遥はあきれたようにフッと笑って、わたしのおでこを人差し指でツンと突っついた。