61.甘い響き その2
「あははは……。まるで、なんか悪いことして逃げ出すみたいに走ってるわたしたちって、絶対に怪しいよね」
「ああ、十分に怪しい。でもここまでくれば、あの子たちも追っては来ないだろう」
遥に手を引かれて、ゆっくりと歩き始めた。
「昔、希美ちゃんに遊んでって付きまとわれて、二人で裏山に逃げたことがあったよね」
「ああ、そんなこともあったな」
「わたしは、希美ちゃんも一緒に遊んであげようって言ったんだよ。なのに遥が……」
「なんだよ。柊だって、結構おもしろがってたじゃないか」
「そんなことないよ! 」
「そんなことあるって! 」
そう言って、またお互いに顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
遥とこんなに笑ったのは何日ぶりだろう。
別居してからは、きっと初めてだ。
「ああ、おもしれえー。腹が痛いよ。昔話はさておいて……。めいっぱいかわいいカッコしてんのに、こんなに走らせてしまって、ごめんな。その靴じゃ、走りにくかっただろ? 」
「んもう、遥ったら。く、つ、じゃなくて、ミュールだってば」
「はいはい、ミュールね」
ミュールとサンダルの違いがわからないのはまだ許せるけど、足に履くものを全部靴って言うのは、いい加減やめて欲しい。
こんなんで本当にモデルの仕事が出来るのかと、ふと心配になる。
「あんまり走るから、ヒールが取れるかと思った。でも仕方ないよ。だって、あの子たちから逃げ出すには、こうするしかなかったんだし」
「まあな。ほんとに参ったよ。向こうは悪気はないし、頭ごなしに断ることもできねーしな」
「そうだよね。でもあの子たち、どうして遥だってわかったんだろ? 前のポスターのことを覚えてくれてたのかな? 」
「いや、そうじゃなくて。多分、昨日発売の例の雑誌のせいだろ。次号の予告が載ったんだ。そこにちゃっかり俺も写ってたみたいでさ。あの子たちもきっと、それを見たんじゃね? やっと最近、ポスターのことを言われなくなったのに、また振り出しにもどってしまったよ」
「遥も大変だね。ふふ……。さっきの女子高生たちに囲まれてる時の遥ったら、すっごく困ってる顔してた。でもわたしが近付いて声かけたら、もっと大騒ぎになるかもしれないと思って、知らないフリしてたんだよ。ファッション・ユーの次の号が発売になったら、もうこんな風に街を歩けないよね。ねえ、遥。これから外出する時、どうする? 」
わたしは冗談半分に遥の顔を覗きこんだ。
「大きなお世話だ。んなもん、ばれないようにすればいいだけだよ。俺を誰だと思ってる? これでも舞台役者の端くれなんだぜ。世間の人をうまく欺く自信くらいあるぞ」
遥が腕を組み、息巻く。
「髭つけたり、カツラかぶったりするの? 」
「おお、それいいねえ。女装したり、でっかいマスクしたりってのはどうだ? 」
「よかったら、わたしの服、貸してあげる。化粧品も必用だよね」
「そうだな。その時はよろしく。でも柊の服は残念ながら入りそうにないな。そうだ、ばあちゃんに送ってもらおっか? 」
「おばあちゃんに? それって、遥がおばあちゃんの服を着るの? 」
遥の本気とも悪ふざけとも取れる話が徐々に熱を帯びてくる。
「そうだ。ゴム入りスカートなら、きっと俺にも穿けるぞ」
「ええ? それはやめてよ。絶対にいやだ」
「ついでに、ブラウスとカーディガンも送ってもらうか」
「は、遥、お願いだから……。本当にそれだけは、やめてよ。わたし、今度大きめの服をバーゲンで買うから。せめて、それを着るようにして。ね? 遥ぁ……」
わたしは暴走する遥を食い止めるべく、最後の手段を提示した。
なのに、遥ったら……。
「ひ、い、ら、ぎ? 俺が本当にそんなことすると思ってんのか? 」
遥のいたずらっぽい目がわたしをじっと見る。
「えっ? 」
「あのな……。全部冗談に決まってるだろ? それとも何? 俺がばあちゃんの服着てるところ、想像してたのか? 」
「そ、そんなわけないよ。してない! 絶対にしてない! 」
わたしは必死になってふるふるとクビを振った。
そりゃあ、少しは想像したけどね。
でも遥のそんな姿は絶対に見たくなかったし、すぐさま、頭の中から映像を消し去った……つもりだった。
「柊のあわてた時のその顔。いつ見てもおもしろいな」
「もうっ、からかわないで……」
わたしが真面目に遥のことを考えてあげているのに、こいつときたら、いつもこうやってわたしを茶化すのだ。
その時だった。遥が突然真顔になり、ふくれっ面のわたしの頬に顔を寄せてくる。
そして……。
わたしは遥の不意打ちのキスに、驚きのあまり、その場でかちっと固まってしまった。
な、なによ……。遥ったら、こんなところで、なんてことするんだろう。
「今夜は久しぶりに……。そっちのアパートに、行くよ」
耳元をかすめる遥の声に、危うく心臓が止まりそうになった。
ともすれば回りの雑音にかき消されてしまうほどの低くかすれたその声が、やや甘さを含んでわたしの胸の奥に響く。
遥の言っていることの意味がわからないほど、わたしも子どもじゃない。
わたしは、今夜訪れるであろうめくるめく夜を思い浮かべながらこくっと小さく頷いた。
さっき遥が口づけた唇の端が、まだ熱い。
わたしがほんの一瞬、遥の横顔を仰ぎ見たら、繋いでいた遥の手に、ぎゅっと力がこもった。
さっきの遥の一言のせいで、どこをどう歩いたのか、全く覚えていない。
二人とも無言のまま路地から大通りに出る。
そして携帯を取り出した遥が画面を見て、大通りの反対車線を指差した。
「あそこで、先輩が待ってくれてる」
遥の指し示した先には、どこかで見たことがある豪華なエンブレムのついた外車が、歩道の脇に横付けされていた。
左ハンドルの運転席に見える横顔は、確かに本田先輩だった。