6.商談成立 その2
晴れ晴れとした表情の黒ぶちメガネ氏が素早く伝票を手にして、ここは私にまかせて下さいと言って、財布をだそうとする遥を軽く制止した。
本日の話し合いは無事終了したようだ。店を出ようとした三人が同時に立ち上がる。
タイミングよろしくその瞬間に顔を上げてしまったわたしと、くるりと向きを変えた遥の視線がばちっと重なった。
目をそらせてももう遅い。
わたしの姿を捉えた遥の目が、ありえない程に大きく見開かれる。
「ひいらぎ? 柊なのか? なんでここに居るんだ? 」
遥の素っ頓狂な声にびっくりしたわたしは、条件反射のようにその場に立ち上がり、直立不動になる。 遥ときたら、本当に今の今まで、わたしがここに居ることに気づいていなかったようだ。
以前、ここの紅茶がおいしいと話したことがあったはずなのに、遥はすでに忘れてしまったのだろうか。
続いて、こいつ誰? みたいな怪訝そうな目で、黒ぶちメガネ氏とキャリアウーマンにおもいっきり睨まれた。
目のやり場に困ったわたしは、咄嗟に俯く。
迷うことなくこちらの席に移動した遥に対して、本日はどうも、と当然のごとく不信感丸出しの顔つきで会釈しながら帰っていく二人に居心地の悪さを覚えながらも、深々と頭を下げるしかなかった。
二人が完全に店を出たのを見届けると、どっと全身の力が抜けたようになりへなへなと椅子に座り込む。
すると帽子をぬいだ遥が髪が乱れているのも気に止めず、突如まくし立てるではないか。
「おい、柊。ここに居るなら居るって、さっさと言えよ。なんでこそこそ、ここでひそんでるんだよ」
彼が不愉快なのはわかる。
でも、だからと言って八つ当たりだなんて。いくらなんでもひどすぎる。
もっと優しい言い方ってのがあると思うのだけど。
「ちょっと遥、落ち着いてよ。ここはお店だよ」
声のトーンを出来るだけ落として彼に伝える。
「だってね。初めのうちは、わたしだって、そこにいるのが遥だなんて、ぜんぜん気付かなかったんだから。そんなに怒らなくてもいいでしょ? わたしの身にもなってよ」
頬を膨らませて、ぷいと顔をそむけた。
「はあ? 俺が困っているのをわかってて、知らんふりしてるんだものな。そんなに冷たい奴だとは思わなかったよ」
「冷たいだなんて、ひどい。ちらっと横顔が見えて、遥だってわかった時、声をかけようとしたんだよ」
「へえ、それで? 」
「でもあの二人が、あっと言う間にずかずかと遥のところにやって来て、わたしの出る幕なんてどこにもなかった。ね? しょうがないでしょ? わたし……。なんかああいう人達、苦手だもん」
「俺だって、苦手だよ。今の話聞いてたんだろ? 柊も一緒に反対してくれたら、あいつらも早々にあきらめたかもしれないのに……。はあ……。雑誌の読者モデルかなんか知らねーけど、うっとおしいよな。ああ、めんどくせえ。やってられないね」
遥お得意のめんどくせえが、いつもよりいっそう重くせつなく店内に響く。
本当に嫌で嫌でたまらないのだろう。
整った顔をそこまで歪めてしまうくらいに、嫌悪感でいっぱいのようだ。
腰を前にずらすように椅子に座った遥は、背もたれに頭が付くくらいまで下がって、ため息を連発していた。
悔しいほどに長い足がこっちにまで侵入して来て、わたしのお気に入りのスニーカーを邪魔だとばかりにぐいっと押しのける。
が、しかし、負けずに押し返してやった。
「もうっ、遥、いい加減にして。それと、めんどくさいって言うわりにその服装。いったいどうしたのよ! どう見たってモデル並だよ。随分気合が入ってるように見えたけど? そのジーンズも初めて見るし。それに、そんなおしゃれで高そうなジャケット。いつの間に買ったの? 」
おまけにさっきは帽子まで深めにかぶって、まるでお忍びで街を歩いているタレントのようだ。
わたしの知らない遥がそこにいるようで、正直おもしろくなかった。
「これか? ジーンズは是定先輩のお下がりで、ジャケットは本田先輩に借りた。このあと昼からちょっと人に会うんでね……。相手はあの劇団の今後を左右するような大物だから、服装にも気を使うんだ」
是定先輩は遥と同じ学生マンションに住んでいる後輩思いの優しい人だ。
わたし達と郷里が近いのもあって、いろいろと良く面倒を見てくれる。
先輩は劇団の代表も務めていて、人望もある。
遥が惚れ込むのもわかる気がするのだが、今日の彼の装いはあきらかに度を過ぎていると思うわたしが間違っているのだろうか。
そして、問題は本田先輩だ。
その人ときたら、何を考えているのかさっぱりわからない上に、時々ぷっつり連絡がとだえたと思いきや、テレビでドラマの通行人とかの端役でみかけたりするサークルきっての風来坊なのだ。
他の団員の人たちも少し距離をおいているみたいだが、そんな気ままな人でも堂々と団員として存在できるところが、ここのサークルの最大の謎でもある。
あまり深入りしたくない人物には違いない。
その先輩が何を思って、遥にこんなブランド物のジャケットを貸すのかただただ理解に苦しむ。
そんな人からわざわざ借りなくても、いつもの自分の服でいいのにと思ってしまう。
「そんなに重要な人に会うんなら、スーツとかの方がいいんじゃないの? 」
入学式の時に着用した紺の三つボタンのスーツが、とてもよく似合っていたのを思い出す。
きちんとした場で目上の人と会うのならスーツ以外は考えられない。
「はあ? この世界で劇団員がスーツ着てウロウロなんてしてみろ。それこそ、空気よめねえ奴って笑われるのがオチさ。就活してるんじゃないんだ。あくまでも劇団の未来がかかっている会合なんだ。先輩が相手の好みとかも熟知しててアドバイスしてくれたから、こんな格好になったってわけだよ」
そんなものなのかな……。だがまったく理解できない。
東京での学生生活は、とにかく今まで正しいと思っていた常識を、ことごとく覆してくれる。
「じゃあ、その帽子も? 先輩がコーディネイトしてくれたの? 」
「これは違うよ……。柊も知ってるだろ? 最近、道を歩けば、声とか掛けられるからな。できれば顔中覆面でもして歩きたいくらいだけど、そうもいかないし。だからこれで顔半分隠してる……。なんで俺がこんなことしなくちゃいけないのか、ほんとに情けないよ。それもこれも、じいさんに少しばかり温情を示したばかりに……」
こんな目に遭ってしまったんだ、ああ腹減った、何か食いたい……とサンドイッチを注文した遥は、わたしに一切れも分けてくれずに、パクパクと平らげた。
その上、すっかり冷えてしまったけれど、それでも大事なわたしの二杯目の紅茶まで奪い取られてしまった。
今夜は忙しくなりそうなのでメールもできないかも、じゃあなと言ってそそくさと会計を済ませ、店から慌しく去って行く遥。
忙しくなくてもメールなんてくれないくせに……とそこまで出かかった言葉をゴクンと呑み込むと、以前から渡されていた遥のマンションの鍵をカバンから取り出して、手の平に載せてみた。
今夜、遥の部屋に、行ってみようかな……。
そう思ったとたん、わたしの心臓が小さくトクッと鳴った。