51.禁断の香り その2
「蔵城さん、今夜はもう上がっていいよ。あの素敵なお客さんに、そう言ってあげなよ」
二十代後半のまだ若い男性の店長が、意味ありげな笑顔を浮かべながら、こっそりと耳打ちしてくれる。
大河内はまたこの前のように、ちょっと話がしたい、とか言い出すのだろうか。
わたしの方は何も話すことはない。
まだ仕事があるからごめんねと断りたかったのが本心だ。
「ほらほら、何をもたもたしてるの? ここはもういいからさ。早く帰る支度して」
「で、でも」
「でもでもだってとか言ってないで。ねえねえ、あの人、めっちゃかっこいい人じゃない。背も高くて、イケメンーっ。あたしの好みよ。もしかして、蔵城さんのカレシ? 」
今度は調理スタッフのパート女性がそばに寄って来て耳元でささやく。
気のいい人ばかりで、いつもこうやってお互いに助け合う、いい職場なのだけど。
みんな、何か誤解してる。
大河内は、カレシなんかじゃない。
「い、いえ、違います。ただの友だちです。中学時代の同級生なだけです」
と言っても取り合ってくれない。
「やだーー。赤くなっちゃって。んもう、蔵城さんったら、隅に置けないわね。カレ、前も来てたんじゃない? なーんだ、そういうことね。いいわね、若いって。ほら、早く。カレを待たせちゃダメ。そこの洗い物はいいからさ。若いうちはね、先輩の言うことに逆らっちゃダメなの。さささ、早く、早く」
エプロンを無理やりはずされて、スタッフルームに押し込められる。
「お客さま。蔵城さん、もうすぐしたら出てまいりますので……。しばらくお待ちくださーーい! 」
今までに聞いたこともないようなパートさんのはずんだ声が、不謹慎にも店内に響き渡った。
大河内は、持ち帰り用にハンバーガーを二つ注文してわたしを待っていた。
着替えて出てくると、案の定、ちょっとだけ話がしたいと言って表通りのカフェにやや強引に連れて行かれる。
そこは、挽きたてのコーヒーの香りが漂う、静かで落ち着いた店だった。
奥へ奥へとつかつかと足を踏み入れ、二人がけのテーブル席を見つけると、すっと椅子を引いてわたしを先に座らせてくれようとするのだ。
その流れるような一連の動きに、思わず見とれてしまった。
「あ、ありがとう。大河内君」
「当然のことだよ」
そう言って、にこっと微笑む大河内は、やっぱりいいやつだった。
こんなことも自然にできてしまう大河内のことだ。
今でもきっとモテモテなんだろうなとふとそんなことを思ってしまった。
エアコンの冷気が心地よいその場所に腰掛けると、アイスコーヒー二つとわたしに何も聞かずに注文する。
「前に会った時もアイスコーヒー頼んでただろ? 今日も、それでいい? 」
わたしは普段、あまりアイスコーヒーは頼まない。
あの時は、突然の大河内の出現に驚いて、何も考えられないまま咄嗟に注文してしまったのが、たまたまアイスコーヒーだったというだけだ。
どちらかと言えば、アイスティーの方が好きなのに。
遥なら、必ずアイスティーを頼んでくれる。
遥なら……。
そんな風に考える自分がなぜかおかしくなる。どうして遥と比べてしまうんだろうと。
大河内は恋人でもなんでもない、ただの同級生なのだ。
そんな大河内がわたしの嗜好まで知っている方が変だというのに。
今さらそれでいいと聞かれても、大河内はもうすでにアイスコーヒーを注文してしまったのだ。
同じ飲食業でアルバイトをしている身としては、厨房の混乱を考えると、やっぱりアイスティーがいいななどとはとても言えなくて、仕方なくうんと頷いた。
「ならよかった。ねえ、蔵城……。今、付き合ってる人とかいる? 」
突然真顔になった大河内が訊ねる。
まだ注文したアイスコーヒーも来ていないのに、そんなことを訊かれても、すぐに答えられるはずもなく……。
眼鏡の奥でじっとこちらを見据えている目の前の視線に、どぎまぎする。
さらさらの前髪は今尚健在で、すっと通った鼻筋も、きりっとした眉も、より一層、精悍さを増したように思われる。
中学生の頃、大河内のどこがかっこいいのか皆目理解できなかった自分がなつかしい。
あの頃のわたしなら、もう、なんでそんなこと訊くのよと言って肩のひとつでもポンと叩き、がはははと笑い飛ばしていたに違いない。
でも今は、そんな風に軽口を叩けるような雰囲気ではない。
大人の男性に変貌を遂げた大河内に向かって、いい加減な受け答えは許されないような気がするのだ。
「大河内君……。あの、どうしてそんなこと訊くの? 」
付き合ってる人ならいるよとさらっと言えばいいのか、それとも、さあどうかしら……とごまかした方がいいのか、大河内の真意を探るように訊いてみた。
「どうかなと思って、訊いてみただけだよ。もしいたら、こんな風にお茶に誘うのも悪いだろ? 」
そうか。そんな風に気を遣ってくれていたんだ。
大河内の答えを聞いたとたん、私の心のバリアがすっと取り除かれる。
「そ、そうだよね。誤解されたらいけないもんね。あ、あの……。わたし、付き合ってる人、いるよ」
わたしは大河内の目を見ながら、はっきりと答えた。
「そっか。そうだよな。いるだろうとは、思ってた……。東京で見つけた? 」
少し残念そうな顔をした大河内だったけど、それでも白い歯を見せて、笑顔で答えてくれる。
大河内から直接好きだとかは言われたことはないけど、遥は大河内はわたしに気があると断言していた。
わたしだって、そこまで鈍感ではない。
それとなく大河内から発せられる、あまやかな電波をキャッチしたことはある。
だからと言って今もそう思ってくれているとは限らないけど、遥が藤村の夢美への思いを、男はそういうものだと言っていたのを思い出し、事実をきちんと伝えておいた方がいいかもしれないと思い始めていた。
わたしは大河内に真実を話そうと決めた。
「ううん、東京の人じゃないんだ。あのね、大河内君も良く知ってる人。わたしの親戚の、堂野だよ」
大河内の顔が急に強張る。
運ばれてきたばかりのアイスコーヒーのグラスをがしっとつかみ、そのままごくごくと飲み干した。
そして、また形相を崩し、笑顔になった。
でも。目は少しも笑ってなくて。
「堂野と付き合ってるんだ。ふふ……。やっぱりな。そんなことだろうとは思ってた。君たちは、高校も同じだった。確か大学も同じだよね? 」
「うん……」
「じゃあ、二人は示し合わせて東京に出てきたんだ。そうだろ? 」
「う、うん。でも……」
「でも? 」
「あっ、うん。あのね、堂野が言ったんだ。大学に行く目的を見失っちゃいけないって。そこでどうしても学びたいことがあるなら、一緒に東京に行こうって。だからわたしも、生半可な気持で東京に出てきたわけじゃないと……思ってる」
わたしはそう言いながらも、少しだけ罪悪感に襲われていた。
遥と同じ大学を選ぶに当たって、彼に何度も念を押されたのは事実だけど、遥と離れたくなかったっていうのが一番の理由には違いないからだ。
「そうか……。なあ、蔵城。ということは、僕は今、すごく不利な役回りに立たされてるってわけだよね? 蔵城。僕は、堂野に勝ち目はないのかな? 君の心のどこか片隅にでも、僕を思ってくれるスペースは、ない? 」
甘いマスクをおしげもなくさらしながら、大河内が無理難題を押し付けてくる。
容赦なく降り注ぐ告白ともとれるストレートな言葉に、危うく目まいを起こしそうになった。