50.禁断の香り その1
遥と別れて暮らすようになって、もう何週間くらい経ったのだろう。
彼が置いていったセミダブルベッドがこんなに広いとは思いもしなかった。
手を伸ばせばすぐそこにいた遥が今はもういない。
朝までずっと抱きしめていてくれた腕も、頬を撫で背を彷徨った指も、今はどこにも見つからない。
一人きりの夜がこんなに寂しいだなんて、遥と一緒にいる時は想像すらしなかった。
ほんの数ヶ月前まで、平気で一人暮しをしていたはずなのに、この変わりようは何だろう。
でも、一緒に暮していなくても、わたしたちの心はひとつに繋がっている。
どこにいても、どんなに離れていても、気持は通じ合っていると信じている。
いっぱい仕事をして、マンションを借りられるだけのまとまった蓄えが出来たら、必ず迎えに来るからと言ってこの部屋を出て行った日、遥の目がわずかに潤んでいたのを見逃さなかった。
遥も辛かったのだ。
お互いの額をくっつけて、じゃあなと言った時の遥の目を、わたしはこれから先もきっと忘れない。
その日わたしは、あまりにも別れが辛くて、一晩中泣き続けた。
すると次の朝、忘れ物をしたという遥がひょっこりやって来て、わたしの泣き顔を見てお腹を抱えて笑ったのだ。
二度と会えないわけでもあるまいし、呼べばいつでも来てやるぞと言って、涙を流さんばかりに大笑いをする。
たぶん。七夕が近かったこともあって、あの頃のわたしはちょっぴりセンチメンタルになっていたのかもしれない。
年に一度だけ会うことが許される織姫と彦星に自分たちを重ねていただなんて、恥ずかしくて遥には言えるわけもなく。
そしてその夜は、結局また一緒に過ごしてしまった。
それ以降も彼は頻繁に泊まっていく。
そのたびに父の顔が目蓋の裏に浮かんで、胃がきりきりと痛くなるのだけど、これくらいは許してくれるだろうといいように判断する自分がいた。
わたしのアパートに遥が出入り禁止だとは、まだ言い渡されていないじゃないか。
言葉の揚げ足を取るようで大人気ない解釈だとわかっているけど、父だってそこまで目くじらを立てることもないと思う。
第一、一緒にいるかどうかなんて確かめる手立てはないに等しい。
それに、母たちも、もう二度とあのような前触れなしの突撃訪問はしないと思う。
あれほど衝撃的で気まずい事件はお互いにもうこりごりなはずだ。
というか、わたしたち以上に、母たちが受けたショックの方が大きかったに違いないので、このアパートには当分近寄らないと推測できる。
あの父が、もし子どもが出来たら相談しろとも言ってくれた。
きっとわたしの気持ちを理解してくれると思っている。
以前と違って、遥がメールをこまめに返してくれるようになったことも最近の変化のひとつだ。
一日の終わりには、必ず電話もかけてきて声を聞かせてくれる。
最初はなんだか照れくさかったけど、これこそ本当の恋人同士みたいだと、今ごろになって胸がときめいたりもした。
人から見れば、かなり変なカップルだと思われているかもしれない。
普通は一緒に暮し始める前にそういう段階をゆっくりと踏んで行くはずなのに、遥ときたら何を思ったのか、中学三年生の分際でいきなりプロポーズをしてきたものだから、すべての順番がおかしくなってしまったのだ。
今夜はなんと、やなっぺがうちに泊まりに来る予定になっている。
実家に帰った時に藤村と会った事を電話で伝えたら、急にやなっぺの声色が変わって、彼の近況をもっと詳しく教えて欲しいと泣きつかれたのだ。
やっぱりやなっぺは、藤村のことがまだ忘れられないのだろう。
でも今回の藤村情報は、やなっぺにとって、朗報になるかもしれない。
あの日、おばあちゃんの家の客間で遥と過ごした藤村は、わたしが思っていた彼ではなかったようだ。
夢美の前では何度もおめでとうと言って彼女の結婚を祝福しているように見えたのに、遥と二人きりになった後、客間では一睡もせずに頭を抱えて一晩中うずくまっていたらしい。
藤村が泣いているのを見たのは、小学校の一年生の時以来かもしれないと、遥が言っていた。
情けない姿を見られたくなかったのか、わたしと夢美が起き出さないうちに、藤村は朝ごはんも食べないで家に帰ったらしい。
夢美のことはもう吹っ切れたと思っていたのは間違いだったようだ。
よく考えてみればわかるはずなのに。
結婚するんですか、そうですかと一晩で割り切れるほど、彼の心は強靭ではなかったのだ。
振られても振られても、藤村は夢美をあきらめることはなかった。
それが藤村の愛の形なんだろうけど、男ってみんなそういうもんさと遥が言った一言が、いつまでも耳に残って離れない。
遥も藤村とおなじなのだろうか。
もしわたしが遥ではなく別の人を好きになっていたとしても、遥は藤村のようにわたしを思い続けてくれたとでも?
わたしなら、一度振られたらすぐにあきらめると思う。
もちろん、相手を思う気持はそう簡単に消えないだろうけど、追い求めたりはしないだろう。
見込みの無い恋愛にしがみつくより、新しい生き方を見つけた方が楽そうだからだ。
男の人の愛って意外と深いものだったんだと、思い知らされた一言だった。
大学の午後の講義が終わると、急いでバイトに向った。
いつもより早目に仕事を終えて、やなっぺを出迎えてあげようと思う。
わたしが働いているこの店の人気商品は、ハンバーガーとサラダとドリンクのセットだ。
アメリカ資本の大手ハンバーガーショップより少し値段は高いけど、肉質の良さとサラダの新鮮さで学生や主婦層にも人気がある。
わたしが任されている仕事はといえば、注文を聞き、店長と調理スタッフが作った出来立ての商品をテーブルに運ぶというもの。
よほど人手不足にならない限り、直接調理に携わることはない。
今夜もようやく人の波が落ち着き、持ち帰りの客がカウンター越しに数人待っているくらいで注文待ちの行列も無くなった。
テーブルを片付けカウンターに戻って来た時、自動ドアの開閉音が背中越しに聞こえた。
新たなお客さんが来たに違いない。
わたしはそのままの体勢で、どのスタッフよりも先にいらっしゃいませと声をかける。
もう反射的なものだ。この声で、奥にいるスタッフにも来客を伝えることが出来る。
わたしの声に呼応するように別のスタッフのいらっしゃいませが店内に響き渡った。
わたしはトレイとグラスを片付けて、カウンター越しに入ってきたばかりのお客さんと向かい合った。
そして、よく知るその人物と、バッチリ目が合ったのだ。
「よう、蔵城。元気そうだな。今日の仕事、何時に終わるの? 」
そこに居たのは……。
中学の同級生、大河内大輔だった。