41.家族 その2
「ねえ、遥。本田先輩に世話になるって言ったけど。その……。先輩ってきちんとした家があるの? 」
劇団の移籍事件以来、ますます本田先輩との絆が深まった遥は、時々わたしたちの住むアパートに先輩を連れてきて、一緒に夕飯を食べることがある。
そうやって仲間の家を渡り歩いているとも聞く。
無口であまり自分のことを語らない本田先輩は、まだまだ謎だらけだ。
「ああ、そのことか。柊には言ってなかったけど、先輩にはちゃんと家があるさ。あたりまえだろ? 先輩のお袋さん、ちょっと体調崩してて、今は家で療養中なんだ」
「ええ? 療養中? ますます心配な気がする。いくら先輩がよくても、迷惑なんじゃない? 」
そうだ。体調を崩している親がいるところに転がり込むなんて、いくらなんでも非常識だろう。
「心配性だな、柊は。ほら、去年の大河ドラマの春風の乱に出てた主人公の母親役の伊藤小百合。あの人、途中降板しただろ? 先輩の母親だと言っていた」
いとうさゆり……。伊藤小百合って。
えっ? も、もしかして、女優の伊藤小百合のことだろうか。
テレビでよく見るあのきれいな人。あの人が、本田先輩の? 母親?
ま、まさか。そんなことが……。
わたしがあたふたしている間にコーヒーカップをガシャっと乱暴にテーブルに置いた父が、らしからぬ奇妙な声を上げる。
「うぉぉぉぉぉっ! い、伊藤小百合だと? 今、伊藤小百合と言ったな? おまえ、伊藤小百合の息子と友達なのか? なんてことだ。なんでそれをもっと早く言わない! 」
父の驚きぶりは尋常じゃなかった。
遥もそんな父の豹変に驚きながらも落ち着いたスタンスは崩さない。
「おじちゃん……。別に親が女優でも普通の主婦でも。子どもには何も関係ないと思うけど」
「何が関係ないんだ! 」
「大学には他にも俳優や歌手の娘もいるし、国会議員の息子もいる。一部上場企業の重役の娘だって、そこかしこにいるっていう話だ。でも誰も自分からそんなことを言いはしないし、逆にそれを負い目に感じてる者がいるのも事実だ。だから俺も、あえて話題にしなかっただけなんだだけどな」
「おまえなあ……。それを聞いて夢をふくらませるのが一般人の楽しみだろ? なあ、遥。……今度、伊藤小百合のサインをもらってきてくれ。実は……その……。昔から彼女のファンなんだ……」
と、父さん……。
さっきまで遥にあんなにえらそうにして、プリプリ怒っていたのに。
実は伊藤小百合のファンだったなんて。
野球と魚釣り番組とバラエティーしか見ない父が、伊藤小百合の出ているドラマや映画だけは欠かさず見ていたのは知っているけど、まさかここまで本気で好きだったとは想定外だ。
それにしても伊藤小百合の息子が本田先輩だなんて、これは確かに驚きの新事実だ。
高校生の時に見てた学園ドラマにも、主人公の新任教師の母親役で出てたはず。
小柄で愛くるしい目をしたとてもきれいな女優さんだ。
なのに、背が高くてワイルドな感じの本田先輩とは、あまりにも違いすぎる。
遥の話を鵜呑みにするには、条件が不揃いすぎるのだ。
「サイン? まあ、今度会ったら頼んでみるよ。それで先輩は、母親の望みで最近は自宅から学校に通ってるんだ。俺がマンションを出て柊のところに行く時も、うちに来ないかと誘ってくれた。かなり豪邸に住んでるみたいだぞ」
遥はわたしが怪訝そうな視線を送っていても一向に動じる気配を見せず、先輩と伊藤小百合の親子関係の信ぴょう性を語り続ける。
「豪邸? 」
豪邸って、なんかドキドキする言葉だ。
庭に噴水なんかがあって、もちろん水面がキラキラするプールも備えられていたりして。
荘厳な門を車でくぐり、小高い丘の上に建つお屋敷に向かうのだ。
玄関の前には使用人が立ち並び、ご主人さま、お帰りなさいませと頭を下げる。
そんな場面がぴったりな住まいこそ、豪邸のイメージだ。
「ああ。あまり物事を誇張することなく話す先輩の言葉の端々に、普通じゃないほどの豪邸感がにじみ出ている。てことは、実際はもっとすごい家なんだろうなと予想しているんだ」
「そうなんだ……」
もう間違いない。
きらびやかなドラマの世界がそのままわたしの脳内に映し出される。
「例の協会のポスターを見て、先輩のお袋さんが俺に興味持ってくれているらしい。柊も一緒に一度遊びに来いって何度も先輩から誘われている」
「わ、わたしも? 」
「ああ、そうだ」
わたしだけでなく、父も、そして母も。
ぽかんと口を開けたまま、嘘のような、でも本当なのであろう現実味のない話を聞いていた。
遥ときたら、今まで一度だってそんな話しをしてくれたことはなかった。
本当に今日、初めて聞いたのだ。
伊藤小百合に会えるなんて、まだ信じられないけど、だからと言って本田先輩に対する先入観がガラッと変わったりはしない。
やっぱり親子なんだ、と信じるには、この目で確かめてみいないことには……。
先輩とは一学年違うだけなのに、五歳以上、いや、十歳くらい年齢が離れているように思えるくらいその人はどっしりと落ち着いて見える。
そしてその声は。
これまでに数えるほどしか聞いたことがないくらい無口なのだが、たまに聞く先輩の声は低くて艶のある声で、じっと聞き入ってしまうことも多々ある。
声優として洋画の吹き替えにぴったりだと常々思っていたのは、遺伝子の仕業だったのかと今初めて気付かされる。
遥は口数の少ないぶっきらぼうな先輩と一緒にいても全く気にならないというけど、わたしはどう接していいのかわからなくて、無理していろいろ話しかけたあげく冷ややかな目で睨まれ、全身が縮み上がったのは一度や二度ではない。
「柊、遥がああ言ってるんだ。ぜひ行って来たらいい。くれぐれも伊藤小百合の前で粗相のないように気をつけるんだぞ。そうか、伊藤小百合の息子とうちの娘が同じ学校で学んでいるなんて嘘みたいな話だな。まさか、こんな光栄なことが我が家で巻き起こるとは。とうとう、本物の伊藤小百合に会える日がやって来るんだな……。俺も行きたかったなあ。何年たっても、きれいな人だからな……」