40.家族 その1
父があまりにも突然にそんなことを訊くものだから、わたしも遥も当然のように言葉につまってしまった。
咳こんでいる遥の背中をさすりながら大丈夫と訊ねると、父がまた夕べと同じような不機嫌な顔になる。
「柊、遥にかまうな! 」
などとこれまた理不尽な注文をつけるが、こればかりは父に従うわけにはいかない。
咳き込む遥の背中を尚もさすって様子を見る。
「お父さん! あなたがいきなりそんなこと訊くから、はる君がびっくりしてむせちゃったのでしょ? はる君、ごめんね」
遥は、母が差し出してくれたティッシュの箱を受け取ると、数枚引き出して口と手をぬぐった。
ようやく呼吸が落ち着いた彼の背中から手を離し、おそるおそる父に訊ねた。
「父さん。式って、そ、その……」
多分あのことだとは思うけれど、なんだろう。
こういう時って答えがわかっていても、訊き返してしまうのだ。
「け、結婚式……ってことだよね? 」
わたしが勇気をふりしぼって言ったとたんに父が訝しげにこっちを見た。
「あたりまえだ。ほかに何の式があるんだ。……おまえたちが一緒に暮らしたいというのなら、きちんと道順を踏んでおかないとだめだろ? 」
「それは、そうだけど……。で、でも、父さん……」
隣を見ると、遥も苦笑いを浮かべている。
そりゃあそうだ。わたしたちはまだ大学生だし、収入もわずかしかない。
そんな状態で結婚など出来るわけがないのは誰の目にも明らかだ。
なのに父から直々に結婚の許可がおりるだなんて、ある意味不可解以外の何物でもない。
経済力や社会的な体面も含めて、二十五歳になるまでは結婚は難しいと思っていた。
いや、二十五歳になっても、三十歳になっても。
到底父が許してくれるとは思えなかった。
そんな中、母は唐突な父の問いかけにも左右されることなく、淡々とコーヒーのお代わりを勧めている。
わずか一晩で、普段どおりの父にもどっていることにも驚いたが、結婚式の話を持ち出してくるところをみると、わたしと遥のことはすっかり認めてくれているようにも思える。
昨夜は怒りのこぶしもぎりぎりで回避されたし、勘当の言葉を浴びせられることもなかった。
「……おじちゃん。式のことは、まだ何も決めてない」
咳がおさまった遥が父に向かって話し始めた。
「俺たちはまだ学生だし、結婚は卒業してからと思っている。就職して、仕事が軌道に乗ったらすぐにでも式を挙げるつもりだ」
父が敵対心丸出しの目をして、ぎろっと遥を見た。
どうしてだろう。遥は何も間違ったことは言ってないと思う。
一般的には学生結婚をすることも可能だが、少なくとも、遥もわたしもその予定はない。
しかし、今の遥の話を聞いて、びっくりしたことがある。
仕事が軌道に乗ったら結婚するなんてことは初耳だ。
ずっと二十五歳になったら結婚するのだと思っていたから、すぐには信じられなかった。
ということは、二十三歳でも二十四歳でも結婚の可能性があるってことだ。
あと数年後には遥のお嫁さんになるんだと思うと、なんだか落ち着かない。
「仕事もこっちで探すし、ここの家か、ばあちゃんのところに住むつもりでいる。それに俺、ここの養子になるから」
「あらまあ! 」
間髪入れずに母の合いの手が入る。
「どっちみち親父も元は蔵城姓なんだし、異存はないと思う。それにおじちゃんとおばちゃんはもともと俺にとっては親も同然だ。義理でもなんでもない。将来はちゃんと世話をするつもりでいる。だからお袋のことはそのうちなんとかするよ。それでいいだろ? 」
遥が養子の話を持ち出したとたん、父の目つきが柔らかくなった。
父にしてみれば、わたしと遥が両親の側にいれば何も言うことはないのだろう。
これなら今までどおり、東京で遥と一緒に暮らしてもいいと言ってくれそうだ。
遥の決意表明に心の中で惜しみない拍手を贈った。
「……そうか。おまえは、そこまで考えてくれてるのか。そうだな、綾子さんには少しずつ歩み寄っていけばいい。希美香も助け舟を出してくれたことだしな」
父が目を細めて、うんうんと頷く。
が、しかし。また顔つきがけわしくなってきた。
「でも、それとこれとは話は別だ。いいか、遥。結婚がまだ先の話だと言うなら、柊と同棲はするな。向こうに帰ったら別々に暮らせ。いいな! 」
い、今……。なんと言ったのだろう。
確か、別々に暮らせと言わなかっただろうか。
それじゃあ、話が振り出しに戻ってしまう。
「そ、そんな……。横暴すぎるよ。父さん、遥は今住むところがないの。ね、だからもうしばらくは一緒にいてもいいでしょ? 」
「だめだ! 絶対にだめだ! なんで結婚もしていないおまえたちが一緒に暮すんだ。おかしいだろ。それに、遥は夕べ言ったじゃないか。もう姉弟じゃないと。ただの男と女だと言うのなら、一緒にいることは許さん。前のマンションに戻れ! いいな、遥! 」
父の意思の固さは尋常じゃない。
付き合うのは認めてくれるけど、一緒にいるのはだめってことのようだ。
結婚も許してくれたのに、これでは意味がない。
このっ、頑固オヤジ! と思わず言ってしまいそうになるのを、どうにかこらえた。
母も大きなため息をついてあきれている。
婚約者なのに引き離されるだなんて、父は、それがどれだけ辛いことかわかって言ってるのだろうか。
そうか……。父は遥が前のマンションに戻れない理由を知らない。
だから、平気でそんなことが言えるのだ。
遥は、裏切られた是定先輩がいるあのマンションには、もう戻りたくても戻れない。
さすがに先輩は、あれ以来演劇サークルに顔を出さなくなったけど、どこかへ引っ越したという話は聞いていない。
「……おじちゃん、わかったよ。前のマンションには戻れないけど、近いうちに必ず柊の部屋を出る」
「戻れない? まあ、もう別の学生が住んでるだろうからな。で、行くあてはあるのか? 」
「うん。しばらく本田先輩のところにでも世話になろうと思ってる……」
「先輩か。うむ。それがいい。何も柊と会うなと言ってるわけじゃない。ケジメだ」
「ああ、わかってる」
あっさりと父の言い分に同意した遥に、肩透かしを食らった気分になる。
昨日、母たちに言ったことはもう忘れてしまったのだろうか。
わたしとはもう離れられないって言ってくれたのは、嘘だったとでも?
それにたった今、聞き捨てならないことを耳にしたような気がする。
本田先輩に世話になるってどういうことだろう……。