37.父さんの涙 その3
時々我がままを言って、わたしや母を困らせたりもしたけど、それも含めてかわいくて仕方なかった。
お姉ちゃん、お姉ちゃんと言って慕ってくれて、わたしがどこに行く時もくっついて離れなかった幼い頃の希美香が瞼の裏によみがえる。
ひとりっ子のわたしの方こそ、希美香の笑顔に毎日幸せをもらっていたのかもしれない。
友達に本当の妹だと間違われた時、どれほど嬉しかったことか。
だからもう、泣かないで……。
わたしは、泣きじゃくる希美香の頭をそっと撫で続けた。
「……わかったわ。私ももうこれ以上何も言わない……。」
ずっと難しい顔をして微動だにしなかった綾子おばさんも、希美香の涙には勝てなかったのだろう。
ふうっと大きく息を吐き、わたしを見てそう言ったのだ。
「柊ちゃん。ここでひとつだけ訊いてもいいかしら? 」
いったい、何だろう。
今日の朝は母が遥にいろいろ質問攻めにしていたのを思い出す。
今度はわたしの番だ。
希美香を抱き起こし、姿勢を正して座り直して、おばさんの質問を待った。
「もし将来、遥が朝日万葉堂を継いだとしたら……。柊ちゃんも、遥について行ってくれるの? 」
わたしの心臓がトクッと鳴る。
そうだった。遥と一緒に生きていくというのはこういうことなんだと今はっきりと自覚する。
もちろん、遥の行く所ならどこまでもついていくつもりだ。
でも……。わたしが東京に永住してしまうことになったら、うちの両親はどうなるのだろう。
畑は? 田んぼは? 家も山もどうなるのか。
父も母もこのままいつまでも元気でいられるなんて保証はどこにもないし、近い将来、必ずわたしや遥の助けが必要になる時が来る。
その時、どうすればいいのか。
店の切り盛りをしなければいけないわたしに、両親を支えることが出来るのだろうか。
すると、あきれたような遥のため息が聞こえた。
「だから……。俺は店は継がないって言ってるだろ? 何度言ったらわかるんだ。じいさんもとっくに了解済みだ」
返事に困っているわたしの心中を察したかのように、遥が口を挟む。
「遥! あなたは黙ってて! もしもの話よ。将来どうなるかなんて、誰にもわからない。おじいちゃんだって口に出しては言わないけど、遥に頼る気持は以前より強くなってるわ。あなただって気が変わるかもしれないじゃない。だからね、柊ちゃん。それだけは覚悟しておいて欲しいの」
「そのことは今、関係ないだろ? なんでそんな話、蒸し返すんだよ」
遥の怒りも収まるところを知らない。
「関係ない? とんでもない。大ありだわ。だから、今は柊ちゃんに話をしてるって言ってるでしょ? 遥は黙って! こういうことはあまり言いたくないけど……。堂野家の資産だって直系の遥が引き継いだ方が、両親も安心だと思うの。私は蔵城姓は名乗れなかったけど、ここに来た時から俊介さんの育ったこの村に骨を埋めるつもりでいるわ。だから、後は遥しかいないの。私は残念ながら商売の才覚に乏しいことに早々に気付いていた。でも遥は違うわ。遥こそ朝日万葉堂を継ぐのにふさわしい人材だと思うのよ。柊ちゃん。あなたもそう思うでしょ? だからね、今後は店のことも視野に入れといて欲しいの」
わたしはおばさんの迫力に負けて、うんと頷いてしまいそうになった。
でも、遥の目がそれを許さない。
すると今度は母が遥をつかまえて、説得にかかる。
「そうよ、はる君。何も今からお店を継がないなんて決め付けないで。だって、あなたなら、商売も向いてるかもしれないもの。そのルックスをいかせば、新しい客層も増やせるし……。だって、あのポスターすごかったじゃない。はる君があんなにも世の中の人たちを惹きつけることになるなんて、本当にびっくりしたもの。って、わたしたちは毎日小さいころからはる君のそばにいるでしょ? だから、客観的に見てなかっただけ。もう今となっては、その辺の俳優さんやアイドルよりも、ハル君の方が素敵に見えちゃうしね。そうそう柊も珠算は二級だし、意外とケチなのよね。甘い物も大好きでしょ? 二人の力が合わさると相乗効果でうまくいくと思うんだけどな。だって、堂野家は、私の父方の遠縁でもあるんだし、向こうのおじさんもおばさんも、柊のことはきっとかわいがって下さるわ。それになんといっても、将来は社長夫人になれるのよ。すごいじゃない! 」
完全に場違いな母のはしゃぎように、呆気にとられてしまった。
遥も唖然とした様子で、わたしと目を合わせる。
いくら慣れ親しんだ間柄とは言っても、遥もわたしの母親には遠慮があるのだろう。
ここはわたしが遥に成り代わって、はっきりと母に伝えなければいけない。
「母さん……。わたしが甘い物好きなのは認めるけど、それと商売は関係ないと思うの。遥には遥の考えがあるんだから、わたしたちのことにこれ以上口を挟まないで欲しい」
わたしはきっぱりと言い切った。
ところがそれで引き下がる相手ではない。
それどころか母は全く怯むことなく、わたしに突っかかって来る。
「あらあ、一人前の口利いちゃって。まだまだ子どもね。そのうち大人の事情ってのもわかる時が来るわ。母さんはね、いつかはきっと、はる君が朝日万葉堂を盛り立てるって、そう思ってるの。母さんの予感って、結構当たるのよね」
確かに、母がボソッとつぶやいたことが、その通りに実現される場合も多い。
が、今はそんなあてにならない予言は信じるに及ばない。
「大人の事情なんて、わかりたくない。それに、社長夫人とか、別になりたくないもん! 」
わたしははっきりと否定する。
もうホントに母ときたらどっちの味方なのかわけがわからない。
社長夫人とか、想像するだけでもジンマシンが出そうになる。
遥だって、もともと据えられている社長の椅子に座ろうなんてこれっぽっちも思ってないはずだ。
そういうのは自分で苦労して切り開いて手に入れてこそ、価値があるものではないかと思う。
こんなにまじめにいろいろなことを考えているのに、わたしのどこが子どもっぽいと言うのだろう。
このままでは、到底腹の虫が収まらない。
本当にこの子ったらと言って、綾子おばさんと顔を見合わせてクスッと笑う母に反論しようと身を乗り出した時だった。
「あの、みんな……聞いてくれる? あたし、前から決めてたことがあるんだ……」
頬に涙のあとをつけたままの希美香がゆっくりと顔を上げて、突然そんなことを言い始めたのだ。