32.好きだと言って その3
ところがだ。
ここでこんなことをしていたら、今度こそ誰かに見られてしまう。
遥のとんがり屋根の家の明かりも、すぐそこに見えている。
なのに、こうやって抱きしめられると、まるで魔法にでもかかったかのように恐怖心が遠のき、とても満たされた気分になる。
今朝も母たちの前で、わたしと離れたくないと言ってくれた。
照れ屋で面倒くさがり屋の遥が言ってくれる言葉のひとつひとつがこんなに愛おしいだなんて、どうして今日まで知らなかったのだろう。
中学生の頃までは、あれほどひょうきんでおしゃべりだった遥が、今ではすっかりそのなりを潜め、無口で気難しい男性に変貌してしまった。
わたしの前だと、ますます無愛想で、横柄さだけが際立つ。
過去にプローポーズはされたけれど、好きだとはっきり言ってもらったことは、実はまだ一度もないのだ。
遥の本心を疑うわけではないけれど、彼の口から直接聞きたい。
好きだと言って欲しい。
遥からそう言ってもらえると、この後どんなことが起こっても耐えられる。
この村から追い出されることになっても、遥のその言葉を支えに生きていけそうな気がするのだ。
だから、お願い。遥の本当の気持を聞かせて欲しい。
今夜の遥ならきっと願いを叶えてくれる。いや、絶対に叶えてくれる。
七夕にはまだ少し早いけどどうかわたしの願いを聞き届けてください……。
「遥。ずっと訊きたかったことがあるんだけど……」
わたしは意を決して訊ねてみる。
「……なんだい? 」
遥がいつになく優しい声で訊き返してくれた。
これならばきっと……。
「わたしのこと。その……。好き? ねえ、教えて? 」
暗闇に紛れていつになく大胆になる。
わたしの肩から顔を上げた遥が、どこか不愉快そうに口を尖らせ、さっと目を逸らす。
「今さら何言ってるんだよ……。んなもん、いちいち口に出して言わなくても、わかるだろ? 」
「そりゃあそうだけど。でもちゃんと言ってくれた方が嬉しいし。ねえ、どうして言ってくれないの? わたしはいつだって言えるのに。遥、大好きだよ……。ほら、ね。遥は? 遥も言ってよ」
「ったくもう。別にいいじゃないか。嫌いな奴と一緒にいるわけないだろ? 好きでもないやつとこんなに近くにいたりしない。なあ? そうだろ? 」
随分投げやりな言い方だ。
それだけでは好きという理由にはならない。
「お願いだからちゃんと言ってよ。ほら、早く」
わたしも今夜ばかりは簡単に引き下がれなかった。
好きの一言が、どうしても聞きたかったのだ。
「おい、柊。何で今日に限ってそんなこと言うんだよ。ったく……。はいはい、わかりました。言えばいいんだろ、言えば」
「うん」
「……好き……だ」
今、何て? 好きだって、言ってくれた?
とても小さな声だった。あまり聞き取れなかったけど、言ってくれたような気がする……。
ならば、もう一度言って欲しい。
今度はわたしの目をみて、はっきりと言って欲しいと思うのは、贅沢な願いだろうか。
「遥、お願い。もう一度、言って。よく聞こえなかったの。ねえ、遥……」
「はあ? ふざけるな。二度と言わねえよ。人がせっかく勇気を振り絞って言ってるのに、そう何度も言えるか」
「えっ、ええ? 残念だな。もう一度、ちゃんと聞きたかったなあ」
遥がわたしの耳元でプリプリと怒り出す。
わたしなら何度でも言えるのに、遥ったら、本当に重症の照れ屋さんだ。
「さあ、こんなところで時間食ってる場合じゃないだろ? いくらロックアイスも一緒に買ったからって、もたもたしてたらアイスも溶けちまう。早く帰ろう」
そんなこと言ったって、最初に立ち止まって抱きしめてきたのは遥、あなただよ。
今となってはわたしの方が遥にしがみついて離れられない。離れたくない。
「柊、いつまでこうしているつもりだ。しつこいな。あっ、誰か出てきた! こっちに来るぞ」
わたしはびくっとして、大急ぎで遥から離れる。
もし父だったら大変なことになる。
服のしわを伸ばし、何事もなかったような顔をして、遥と少し距離をとって歩き始めた。
ところが、いくら周りを見渡してみても、そんな人はどこにも見当たらない。
どこかに行ってしまったのだろうか。
すると後ろからクックックッ……と、押し殺したような笑い声が聞こえてくる。
「……単純すぎる。なあ、柊。こんなところに誰もいるわけないだろ? 」
そう言いながら、なおも笑い続けているのは、意地悪な心を隠し持った遥だった。
「よくもだましたな。ひどい、ひどいよ! 遥なんて、もう知らない! 」
わたしはカバンをその辺に放り出し、おばあちゃんの家の前まで猛スピードで駆け上がった。
そして振り返って叫んでやった。遥のばかーーと。
わたしの分も拾い上げ両手にカバンをさげた遥が、突然猛ダッシュでわたしのそばまで走って来た。
そして、耳元で何かささやく。
「いいか、柊。よーく、聞くんだぞ」
わたしは頬を膨らませながらしぶしぶ遥の声に耳を傾ける。
だって期待しても、どうぜまた裏切られるに決まっている。
遥のおかげで学習能力が開花したようだ。
さあ、どうぞ、どこからでもかかってきなさい、と挑発的な目で遥を睨みながら、彼の言葉を待った。
「柊。…………愛しているよ」
あ……。
わたしは、おばあちゃんの家の前で、魂の抜け殻のように立ち尽くす。
息をするのも、瞬きをするのも、何もかも忘れて……。
その時、右手に持ったアイスの入ったコンビニの袋がほんの少しだけ、カサカサと小さな音を立てる。
二人の間をこっそりと通りすぎて行ったのは、恋の天使だったのかもしれない。