30.好きだと言って その1
路線バスに乗るとほんの数分だけ早く家に着くけれど、バス停から家まではさらに徒歩で十五分もかかるものだから、めったにバスは使わない。
ただ、家の近くにバス停が出来たとしても、利用客はとても少ないと思う。
赤字路線間違いなしだ。
なぜならば、蔵城家と堂野家の周辺には誰も住んでいないからだ。
まだまだもっと村の奥に行かなければ、集落は見当たらない。
だから市に陳情書を出しても、バス停の設置が認められなかったという現実がある。
そういう事情もあって、村の人たちはどの家も車を複数台所有しているのが通常の光景になっている。
我が家も他の村民と同じで、父と母がそれぞれ一台ずつと、遥の家と兼用している農作業用の軽トラックの合わせて三台が常時裏庭に並んでいる。
地球のためには優しくないけれど、こうでもしないと生活が成り立たない。
ただし町へ出かける時は、必ず隣に住む綾子おばさんやおばあちゃんも一緒に車に乗るようにして、なるべくエネルギーの無駄遣いをしないように心がけている、と母がいつも言っている。
わたしも遥もよほどのことがない限り、送り迎えをしてもらった記憶はない。
いつもこの距離を歩いていたお陰で、体力には自信がある。
運動部でもないのに、校内マラソン大会で六位に入賞した経歴を持っていることはわたしの密かな自慢でもある。
運動はおおむね苦手な部類だが、長距離走だけはクラスの仲間にも認められていたと自負している。
もちろん、今夜もバスには乗らない。
遥と手をつないで歩いていれば、きっと長い道のりも辛くないだろう。
それに。必要以上に早く家に着きたくないというのもある。
蔵城、堂野の両家は、今朝の事件で大騒ぎになっているはずだ。
そんな敵陣に、わたしと遥は今まさに丸腰で乗り込もうとしている。
そこに向かう足取りが重いのは当然のなりゆきなのかもしれない。
もうすでにどの店もシャッターが下りていて閑散としている。
小さい商店街を通り抜けると、町一番の豪華な建築物である図書館が暗がりに姿を現す。
建物の大きさもさることながら、植栽の間に彫刻像が設置されているのも特徴のひとつだ。
昼間とは違った様相を見せ、人の形を模した三メートルほどの高さの作品の影が動いたように見えた時は、思わず遥の腕にしがみついてしまった。
そして併設している市民プールを過ぎ、駐車場の裏側がわたしと遥が三年間通った中学校になる。
信号を渡ったところから上り坂になって、家までは三十分ちょっとの道のりだ。
このあたりの住宅は同級生も大勢住んでいる。
わたしと遥がこんな風に手をつないで歩いてるところを彼らに見られようものなら、それはそれでまた新たな噂の火種となりかねない。
慎重に行動すべきだと頭ではわかっているのだが、今朝の出来事はわたしの不安を増長させるのに十分すぎるほどインパクトのあるものだった。
ほんのわずかでも彼から離れようものなら、もう二度と遥のそばにいられなくなるような感覚に陥るのだ。
もうどうなってもいい。誰に見られてもかまわないと思った。
一番見られるのが怖い人たちに全てを知られてしまった今となっては、もう何も恐れるものはないのだから。
が、しかし。
家族との話し合いの結果、遥と引き離される可能性が非常に高い。
最悪の結末が、わたしの脳裏にくっきりと描き出されるのだ。
さまざまな思考が駆け巡る中、やっぱり誰かに見られてるんじゃないかと周囲が気になる。
制服を着ている頃は、遥と並んで歩いていてもそんなに気にならなかったのに、大人になった今の方が臆病になるのはいったいどういうことだろう。
遥と身も心もひとつに繋がり合っている今だからこそ、周囲の人に全てを見透かされているようで、怖いのかもしれない。
いつもより強張った感じのする遥の横顔を確かめると、ぎゅっと力をこめて彼の手を握り締めた。
今夜は蒸し暑い。
梅雨前線が次第に活発になると言っていた天気予報士の言葉がふと頭をよぎる。
「柊、暑くないか? アイスでも買って帰ろうか? 」
急にコンビニの前で立ち止まった遥は、少し表情を緩めてそう言った。
言葉にしなくても遥と気持が通じ合うのは今に始まったことではないが、一緒に暮すようになって、より一層お互いのことがよくわかるようになった気がするのだ。
遥の顔色や息遣い、目の動きを見れば、大抵のことは理解できる。
同じように遥もわたしの思っていることをすぐに言い当てる。
わたしって、そんなに不安そうな顔をしていたのだろうか。
まるで怯えている子どもをあやすように、遥の手がわたしの背中をそっと撫でた。
「うん、そうだね。買って帰ろうよ。希美ちゃんと卓の分もね。遥も食べるでしょ? 」
遥を見上げて訊ねる。
「ああ。じゃあ、家族みんなの分も買っていこう」
希美香は無類の甘いもの好きだ。
わたしにとっても妹同然の彼女には、ちょっぴり値段の張る有名メーカーのカップアイスを買ってあげようと思う。
もちろん抹茶味。
卓にはヒーローのキャラクターがついたソーダアイス。
おばあちゃんはあずきが入った練乳かき氷。
他の家族には何がいいかな、父はチョコ風味で母はフルーツ系、おじさんはクランチタイプ、そうそう、おばさんはコーヒー味のアイスが好きだった……。
「卓はもう寝てしまったかもしれないな。その時は、明日食べさせてやろう」
遥の家族への心遣いが無性に嬉しくなる。
少しだけ気持ちのゆとりを取り戻したわたしは、彼と共に店内に入り、アイスクリームの置いてある冷凍ケースのところに向かった。
雑誌のコーナーには学生らしき人が数人立ちふさがり、立ち読みの真っ最中だ。
そこを通り抜ける時、Tシャツに短パン姿の長身の男性にカバンが当たってしまった。
すみませんと小声で謝りながらカバンを身体に密着させるようにして、遥に手を引かれたまま店の奥へと進む。
すると。
「あれ? もしかして、くら…しろ? 」
いったい誰だろう。
わたしの名前を呼ぶ声に慌てて立ち止まる。遥も同時に歩みを止めた。
「なんだ。やっぱ、蔵城じゃないか! なんで蔵城がここにいるんだよ? 亡霊か? 」
後ろを振り返ると、そこには雑誌を片手にきょとんとした顔でこっちを見ている藤村がいた。
ということは。
今、カバンが当たってしまった人物は藤村だったのだろうか。