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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
第一章 あこがれ
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3.返事いただけるまで、帰れませんから 

 ノートと、本やコピーした資料をテーブルの脇に重ねて寄せる。

 そして、カップを手に取り顔に近付け、すうっと香りを吸い込んだ。

 なんていい香りなんだろう。

 至福のひと時に満たされるあまり思わず目を閉じてしまった。

 ひと口、そしてまたひと口。ゆっくりと口に含み味わって飲む。

 家に常備してあるティーパックでは、この色合いと香りは出ない。

 かと言って、紅茶専門店で高価な茶葉を買うのは尻込みしてしまう。

 プロの淹れてくれる紅茶ならではの味わいをゆっくりと楽しむ、この空間に身を置くひと時が今訪れたのだ。

 えもいわれぬ充足感に満足したわたしは、はあーっと感嘆のため息を漏らす。

 もう一口飲もうと、カップに口を寄せたその時だった。

 テーブルの後方で、店のドアベルがチリンチリンと透明感のある音を鳴らし、続いて店員のいらっしゃいませという声が辺りに控えめに響いた。

 誰かが入って来たようだ。客の近付く気配を背中に感じながら、手に持ったカップを、音を立てないように静かにソーサーに戻した。

 その人は、わたしの横をすっと通り過ぎると、右斜め前にある席に素早く腰を降ろした。

 すると、あたりにはどこかなつかしいような柑橘系のフレグランスが漂い、今飲んだばかりのアッサムと香りのハーモニーを奏でる。

 こちらに背をむけるように座ったその人に、なぜか次第に目を奪われていった。

 背丈はちょうど遥と同じくらいだろうか。

 最近になってようやく伸びるのが止まったようだが、わたしが見上げるくらい、高くなった。

 中学の時に約束した町内見せびらかしデートは、結局実現しないままだが、アパートの電球の取替えや戸棚の奥の物を取ってもらう時に、彼の身長が大いに役立っているのは喜ばしい事実だ。

 俺はひいらぎの脚立代わりか! というのがもっぱら彼の口癖になっている。


 斜め前のその人は、グレーのニット帽を深めにかぶり、通路側に組んだ長い足を投げ出していた。

 残念なことに、この角度から顔は全く見えない。

 きっと、素敵な人なんだろうなと、わたしらしからぬ思いが脳裏を駆け抜け、遥、ごめんねとそれを打ち消すように大急ぎで心の中で謝る。

 ジーンズに黒っぽいブルゾンを着ている。

 ただそれだけの格好なのだけれど、しっくりと身に馴染んでいて、ファッションに疎いわたしの眼にも、それは周りのほかの客と一線を記しているのがはっきりとわかった。

 おっといけない。いつまで見知らぬ人に釘付けになっているのだろう。

 遥という愛する人がいるにもかかわらず、別の人に目を奪われるだなんて、あってはならないこと。

 ニット帽の素敵な人からあわてて目を逸らし、再びカップを手に取る。

 少し冷めてしまったアッサムティーを、マナー違反覚悟で、いっきに飲み干した。

 そしてバッグから携帯を取り出し、いそいそとメールを打ち始める。

 送信先はもちろん遥だ。



 今何してる? 

 今日は休講だって言ってたよね? 

 ねえ、聞いて聞いて! 

 今、遥によく似た人を見つけたの。

 顔はよくわかんないけど

 後ろ姿もしぐさも、遥にそっくりなんだよ。

 でもね、遥との違いは

 その人がファッションセンス抜群なこと。

 めっちゃかっこいいんだから!

 あ、誤解しないで。

 あくまでも、服だけだから。

 その人のコーディネイト

 遥にもきっと似合うと思うよ。

 今度一緒に買いに行こうね。



 顔文字や絵文字は彼が嫌がるので極力使わない。

 文面をシンプルに整えると、そのまま送信ボタンを押した。

 大学に入ってから、いやいやながらも携帯を持ってくれた遥に、こうやって頻繁にメールを送るのだけど、即返事が返ってきたためしがない。

 今回も期待はしていなかったけど、どうしても斜め前の人物について、彼に知らせたい心境にかられたのだ。

 そうすることによって、他人に少しでも目がいってしまった自分の罪悪感を薄めようとしているのかもしれない。

 程なくしてそのニット帽の人がジーンズのポケットに手を入れ、何かを取り出すのが見えた。

 携帯だ。濃いブルーメタリックのそれは、あろうことか、遥のと同じ機種の物。

 なんという偶然。そこまで一緒だなんて! 

 世の中には自分にそっくりな人が何人かいると言うけれど、都市伝説でも何でもない。

 本当のことのようだ。

 見かけが似ていると、趣味嗜好まで似てしまうのだろうか……と思ったその瞬間だった。

 深くかぶったニット帽から、ちらりとのぞいた横顔が目に飛び込んできた。


 う、うそ……。


 は、る、か? 遥なの? 


 大声で叫びそうになるのをどうにか抑えて立ち上がり、斜め前方の、遥らしき人物の座席に向おうとしたのだが……。


「堂野さんお待たせ! 階英出版の牧田さんも連れてきました! 」


 これぞまさしく業界風とでもいうのだろうか。

 ジーンズに黄色っぽいブレザー風のジャケットを着た黒ぶちメガネの三十代くらいの男性と、牧田さんと紹介されていた二十代後半くらいのキャリアウーマンとおぼしき二人が、瞬く間に遥の向かいに座ったのだ。

 タバコを吸わないのだろうか。黒ぶちメガネのその人は、目の前の灰皿をひょいと一本指で脇に寄せる。

 注文を取りに来た店員にコーヒー三つと言いながら、指を三歳の形にして何度も念を押す。

 三つ、三つねと。見かけと異なるかわいらしいしぐさに、思わず目が点になった。


 それにしても。

 どうして遥がここにいるのだろうか。

 今まで目にしたことのない服装で、大人二人を前に対等に渡り合うつもりのようだ。

 まるで狐につままれたような不思議な光景を前にして、息をひそめた。

 夢か幻か。目の前の景色を食い入るように眺める。

 すぐにでも真相を確かめたくて、彼のところに行って問いただしたいのはやまやまなのだが。

 でも今ここであの人たちの前に出て行くのは、得策ではないような気がするのだ。

 サークル関係の打ち合わせの場合もあるし、ここはおとなしくこの場を見守ろうと思った。


 結局遥はメールを見ることもなく、そのままポケットに携帯をしまいこんだ。

 あまりジロジロと彼らを見ていたら、黒ぶちメガネとキャリアウーマンに怪しまれる。

 意識のアンテナだけをしっかり斜め前方に向けて、全く進まないレポートをまとめるフリをしながら、偵察業にひたすら没頭した。


「堂野さん、今日は無理言ってすみません。いやねえ、もう本当に、この前のお宅のお店のポスターやホームページに問い合わせが殺到しちゃって……。うちとしても嬉しい限りで、なんとか階英出版さんのこの仕事も引き受けてもらえないかと、そう思いましてね」


 黒ぶちメガネが額の汗を拭きながら、何やら聞き捨てならないことをべらべらしゃべっている。

 遥に仕事を依頼しているような流れをつかんだ。

 すると黙って聞いていた遥が、次第に不機嫌なオーラをその背中にまとい始めているのがわかった。

 しきりに足を組み替え、テーブルの上の指がいら立ちを露わに小刻みに動き始める。


「ね? どうです? あなたの可能性にかけてみたいんですよ。堂野さん、お願いしますよ」

「無理です」


 遥のなすすべもない返事に、黒ぶちメガネとキャリアウーマンが同時に落胆の表情に変わる。


「そこを、なんとか。ね、堂野さん。無理だなんておっしゃらずに! 」


 黒ぶちメガネは一向にひるむ様子はない。

 そこまで芯が通っているようにも見えない緩い感じのキャラからは、とても想像できない反撃だった。


「だから、無理なんです。前にも言いましたけど、俺、そういう仕事をするつもりはないんで。ポスターの件ですが、あれは不可抗力ですよ。身内のために恥を忍んでやったまでのことです。ということで、今から劇団の打ち合わせがあるんで、今日はこれで。失礼します」


 遥が立ち上がろうとするのを、あわてて黒ぶちメガネが阻止する。

 遥の肩に手を載せ、まあまあとなだめるようにして、席に押し戻した。


「堂野さん、待ってくださいよ。何もどこかのプロダクションに所属して本格的に、ってなわけでもないんですから。今回だけ。一回だけでいいんです。こちらの階英出版さんのファッション誌の読者モデルということで、なんとかお願いしますよ」


 ずり落ちる黒ぶちメガネを何度も持ち上げ、尚も遥を説得し続ける。

 黒ぶちメガネの奥にひそむ目が次第に真剣味を帯びてきているのに、遥も気付いたのだろうか。

 強引にそこから立ち去ろうとしていた気迫が徐々に薄れ、再び椅子に深く腰を沈め座り込んだ。


「とにかく堂野さん。一度やってみてください。大学生活には支障のないように配慮するつもりですから。牧田さん、君も堂野さんにお願いして! 」


 黒ぶちメガネが隣に座るキャリアウーマンに目配せをする。


「堂野さん! ぜひぜひ、私からもお願いします。あなたからお返事頂けるまで、私たち、社の方に帰れませんから。ほんとに今回一度だけでいいんです。お願いします! 」


 今度はキャリアウーマンまでもがテーブルにおでこが付きそうなくらい頭を下げて、懇願態勢に入った。


「お願いします。堂野さん! どうか考え直してください。お願いしますっ! 」


 これはもしかして、遥が前に言っていた、あのことだろうか。

 わたしはふと、以前のあのとんでもない出来事を思い出していた。

 そう。遥は今、ちょっとだけ、時の人だったりする。

 信じられないかもしれないけど。

 なんと彼は、有名人の仲間入りをしてしまったのだ。



読んでいただきありがとうございます。

最近ではジーンズのことをデニムと呼ぶことが多いようですが、現在より前の時代設定なので、ジーンズで統一しますね。ご了承下さい。



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