希美香の恋 その38
「堂野さん、どうしましたか? 何か心配なことでもあるのですか? 」
「ええ、まあ。先輩に対してもそうですけど、従業員の皆さんを騙していたわけですから、いろいろな軋轢が生まれるだろうなって、正直、怯えているんです」
当然の報いであるが、今まで以上に針のムシロ状態になりそうで怖かったのだ。
「大丈夫ですよ。言いたい人には言わせておけばいい。あなたは職場の空気を乱したくなかった、そして、特別扱いされることをよしとしなかった、それだけです。そこに悪意はありません。必ずわかってくれる人はいます。あなたの和菓子作りに対する熱意は、みなさんに伝わっているはずですから」
「先輩……」
先輩の励ましの言葉に心が軽くなる。
今日、この人に会えて本当によかったと思った。
「なんかとっても、すがすがしい気持ちです。まるで今日の空のように……。堂野さん、あなたに背中を押してもらった気分だ」
先輩がすっきりとした表情で、空を見上げた。
「私が、先輩の背中を、ですか? 」
「そうです。私も、世界を旅するとか偉そうなことを言っておきながら、迷いが吹っ切れていなかったのです。けれど、もう立ち止まってばかりもいられません。明日、出国する予定ですが、前向きになれました。堂野さんのおかげです」
彼の笑顔が眩しい。けれど、どうして感謝されるのだろう。
希美香の疑問は尚も膨らむばかりだ。
「私のおかげって、なんだか、よくわからないですけど。私の方こそ、先輩には大変なご迷惑をおかけしてまって、償っても償いきれないです。仕事を辞めてしまっただなんて、そこまであなたを追い詰めてしまったのかと思うと、本当に申し訳なくて」
先輩を退職にまで追い込んだ責任は、すべて自分にあると感いていた。
ならばいったいどうすればよかったのか。
兄夫婦のことなど気にせず、強引に先輩との結婚を進めるべきだったのだろうか。
いや、結婚を決めたならば、やはり退職しなければならない。
朝日万葉堂を継ぐために……。
どっちにしろ、彼には商社マンとしての道は閉ざされる運命にあったのだ。
彼が仕事を続けられなくなることは、ちょっと考えれば予測できただろうに、何も気付かず悲劇のヒロインに浸りきっていた自分が情けない。
「堂野さん、何をおっしゃるのですか。これは私が決めたことです。もともとは教育学部出身の私です。商社勤務は私に向いていなかっただけです。旅に出て、異国の食文化や教育の現状などをしっかりとこの目で見てみたいと、その思いが強くなった、それだけです。あなたとの縁談、ましてや、社長のご意向など、私が仕事を辞めたこととは、全く関係ありません」
「先輩……」
「そんな顔しないで下さい。あなたに会えたおかげで、今はとてもすっきりした気分です。自分の本当にやりたかったことが、はっきりと見えてきたのですから」
「先輩。ありがとうございます。そう言っていただけると、私……」
先輩の優しさが身にしみる。
朝日万葉堂とのしこりを排除するために、彼が自ら身を引いたことは誰の目にも明らかなのに。
それを知った祖父はもっとショックだったかもしれない。
「ほらほら、そんな悲しそうな顔をしないで下さい。あなたらしくないですよ。さあ、元気出して」
「先輩、ごめんなさい。そうですね、元気出さなきゃ、ですよね」
「そうです。あなたにはずっと笑顔で居て欲しい。あなたの笑顔は、私をどれほど勇気付けてくれたことか。でね、堂野さん。まず私は、アフリカに行こうと思っているんです」
彼は、唐突にそう言った。
「アフリカ、ですか……。遠いところですよね」
「ええ、遠いです。でも、私にとって、あこがれの大陸なんです。行ける国は限られますが、出来る限り様々な国を見てこようと思っています。堂野さんはアフリカ大陸に興味ありますか? 」
「あ、はい。テレビで観るくらいで、表面的なことしか知りませんが、でも一度は行ってみたいです」
動物が出てくる番組で、どこまでも広がる大自然を幾度か目にしたことがある。
人類発祥の地とも言われている、あのアフリカ大陸だ。
そこが好きな人のあこがれの地ならば、それを見てみたいと思うのはあたりまえのことだと思う。
「そうですか。それならよかった。中近東に続いて、中国、東南アジア各国も回ってみるつもりです」
「シルクロードの旅ですね」
「はい。子どもの頃からの夢です。いつかはこの目で見てみたいとずっとそう思ってきました。あの……。私のわがままですが。堂野さんに旅の報告をしてもいいでしょうか? 」
「え? あ、いいですけど。あの、本当に、この私でいいんですか? 」
「もちろんです。あなただから……」
先輩と目が合ってしまった。
昔と変わらない優しい目をした先輩がそこにいた。
一瞬、兄から聞いた先輩の過去の話が脳裏をよぎるが、それらの試練にも似た経験があればこそ、今の先輩が存在するのだと心からそう思える自分がいた。
嫉妬とかそんな小さい物は、もうどこにも存在しない。
「堂野さん。私たちは、たとえわずかな時間であっても、心と心が惹かれ合い、お互いに寄り添いたいと、そう思っていた……」
「……そうです」
「けれど、生涯を共にする道は、残念ながら断絶されてしまった」
「はい……」
先輩の言う通り、私たちにその選択肢はない。
「なら、こういうのはだめでしょうか? 」
「え? 」
「恋愛とか、結婚とか、そういう俗世間の煩悩みたいなものを超えた、全く新しい関係を堂野さんと築くのです」
「はい? 」
頷いてはみたものの、先輩の意図するところが、見えてこない。
恋愛や結婚を超えた新しい関係とは。
いったいどんなことを言っているのだろう。