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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
特別編1 希美香の恋
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希美香の恋 その34

 電車を降り、東京駅構内で新幹線のホームに向かおうとする先輩が、では、ここで……と言って、立ち去ろうとしていた。

 工房近くの公園でボールを追いかけたあの日に見たとびきりの笑顔が、今また彼から向けられる。


 電車の中では、最初に交わした会話以外は、ほとんど何もしゃべらなかった。

 次第に増えていく乗客を前に、先輩も希美香も黙り込んだまま、東京駅に着いてしまったのだ。

 希美香は、別れを告げる先輩の後姿に向かって、私も行きますと答えた。

 彼はそんなことは想像もしていなかったのだろう。

 振り返り目を丸くして驚く先輩をよそに、ためらうことなく彼の後に続いた。



「いいんですか?」


 のぞみに乗り、座席についたあともしばらくは無言だったが、新横浜を過ぎたあたりで先輩が閉ざしていた口を開き、その一言だけ訊ねた。

 希美香は黙ってこくりと頷く。


「そうですか。では、あなたも帰るのですね……」


 先輩が独り言のようにつぶやく。

 希美香はまたもや小さく頷いた。

 けれども彼はそれ以上、何も訊いてはこなかった。

 それは彼の優しさだろうと思う。

 あるいは、もうすでに、希美香の決意に気付いているのかもしれないとも思った。


 何も話さなくても彼の隣にいるだけで、心が落ち着いてくる。

 昨晩はあれほど乱れていた気持ちが、嘘のように静まっていくのを感じていた。


 名古屋を過ぎ、ようやく実家の最寄駅に着く。

 希美香は彼と連れ立ってホームに降り、在来線に乗り換えた。

 そろそろ通勤時間帯の終盤にさしかかっているとはいえ、電車内にはまだラッシュのなごりが残る。

 座席はスーツ姿のサラリーマンやOL、ラフなスタイルの学生で占められ、立っている乗客も多かった。

 彼らは一様にスマホを手にし、真剣な眼差しで画面を見つめ、器用に指先を滑らせている。

 年配の男性は、所狭しと広げた朝刊の株式欄の数字を、黙々と辿っていた。


 希美香は、大荷物を持った先輩の隣に立ち、つり革を握った。

 先輩が何か言いたげにこちらを見ている。

 仕事も行かず、こんなところまで来てしまった駆け出しの和菓子職人である自分を、きっと奇異の目で見ているのだろう。


「大河内先輩……」


 希美香は窓の向こうの流れる景色を目で追いながら、遠慮がちに話しかける。


「私がここまで来てしまった理由を何も訊かず、咎めず、見守ってくださって、本当にありがとうございました」


 希美香の目の前に座っている男女の若者は、音楽にすっかり聴き入っているようだ。

 希美香と先輩の会話に反応する様子もなく、思い思いの格好で、自分の世界に浸っているように見えた。


「あ、いや。私こそ、どうしたらいいのかわからなくて。でも、あなたのことだ。無意味なことはしないだろうと思っていました」

「……はい」

「きっと、今朝のこの行動にも、あなたなりの考えがあるのだろうと、そう思って何も言わなかったのですが。でも、果たしてこれでいいのかどうか。東京駅で工房に戻るよう、あなたを諭すべきだったのではと、考えたりもしました」


 先輩が言葉を選びながら、丁寧に答えてくれる。

 やっぱり、いつでもどこでも先輩は先輩以外の誰でもない。


「ご心配をおかけして、すみませんでした。でも、もう大丈夫です。東京に出てきて製菓専門学校を卒業し、それ以降はずっと仕事のことばかりでしたから。ちょっと一息つきたくなっただけです。実家に帰って、リフレッシュして。また仕事に戻ります」

「そうですか。それなら安心です。大丈夫です。あなたなら、大丈夫」

「先輩……」


 全然、大丈夫なんかじゃないのに。本当は、何もかも捨てて、逃げ出したい。

 そして、先輩の胸に飛び込んで、力いっぱい抱きしめて慰めて欲しいと渇望している自分がいるというのに。

 今にもポッキリと折れてしまいそうな心をどうにか保っている状態の希美香に、先輩のあなたなら大丈夫という言葉が、辛くのしかかる。


 けれど、これ以上先輩に心配をかけてはいけない。

 彼に甘える理由など、もうとっくになくなってしまったのだから。

 希美香は、必死の思いで笑顔を作った。

 彼にその笑顔を憶えていてもらうために、大丈夫ですと微笑んだ。


 とうとう地元の駅に到着した。

 車両内の半分くらいの人がホームに降りる中に混じって、希美香も先輩と共に車外に出た。

 眩しい。思いのほか明るい太陽が東の方角から射し込み、目を開けていられなくなる。

 希美香は手を額にかざし、陽射しを避けながら、それでは失礼しますと言って最後の別れを告げ、彼の隣から離れる。

 ショルダーバックひとつで気の向くまま帰省を決めた希美香は、誰よりも身軽だ。

 大きなスーツケースを持ち身動きの取れない先輩を残し、改札を抜け、バス停に向かった。

 これが最後の別れのはずなのに、向かう先はそれぞれの実家であり、その距離は歩いても十分程のところだ。

 運命は時として残酷な試練を人に与える。

 彼のことを何もかも忘れるつもりでふるさとに戻って来たのに、そこに、その張本人がいるなんて。

 やりきれない。

 希美香は理不尽さに打ちのめされながらも、あきらめの境地に至る。

 悩んでも仕方がないからだ。


 すると今度は、なぜか笑いが込み上げてくる。

 自分の人生が滑稽に思えてくるのだ。

 幸い乗り込んだバスには誰も客がいなかった。

 希美香は窓の外を眺めながら、ふっと息をもらし、両手で顔を覆った。


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