希美香の恋 その32
時計を見ると、日付が変わろうとしていた。
薄手のセーターに風が刺し込み、ぶるっと震える。
秋の深まりを感じる風だった。
兄の家を飛び出したあと、電車を乗り継ぎ、行くあてもなく夜の街をさまよっていた。
コンビニを二軒ハシゴした。
雑誌を手にしても、内容が全く頭に入ってこない。
なくなりかけている化粧水も、同じメーカーの物は取り扱っていなかった。
他に必要な物は見当らない。
すぐに店内にいる理由がなくなり、店員の不審者を見るような視線に耐え切れず、すごすごと外に出る。
最終電車までは、まだ少し時間がある。
けれど希美香は、祖父の家に帰るつもりはなかった。
にもかかわらず、電車に乗ってこの先どこに向かうのかも、いまだ決められずにいた。
専門学校時代の友達に連絡をして泊めてもらおうと思ったが、すぐにスマホをバッグに戻す。
こんな真夜中に友達を頼るだなんて、何を考えているのだろうと自分を戒める。
友人たちも皆、製菓あるいは調理にかかわる仕事についているため、朝が早い彼らに甘えるのは、絶対にだめだとわかっているのに……。
仲間以外に頼れる人は、祖父母と兄夫婦だけだ。
その唯一の理解者たちをも敵に回してしまった今、希美香は本当に一人になってしまったのだと認めざるを得なかった。
とぼとぼと歩いて行く。
ところが夜の街は、一人ぼっちの希美香に意外と優しい空間だと気付く。
行く先々に明りが灯り、ファミレスも夜通し営業している。
居酒屋のちょうちんもほんのり明るく温かい。
カラオケ店も、オールではりきる客足が、まだまだ絶えないようだ。
希美香が歩いているところは、大河内先輩の住んでいる街だった。
なぜか、ここの駅で電車を降りてしまった。
ただし、彼のマンションは、この辺りにはない。
最寄の駅からは、結構離れているところに建っていたと記憶している。
一度見た景色は忘れない、そんな特技を持っている希美香は、あの日の朝の記憶を頼りに、わりとすんなりと彼の住むマンションまでたどりついた。
エントランス前から上階を見上げる。
確か、六階だったはずだ。だとすれば彼の部屋はあのあたりだろうか。
ところが希美香が見当をつけた部屋の窓は真っ暗で、そこに彼がいるのかどうかは外からは判断できない。
仕事に疲れて、もう寝てしまったのかもしれない。
あるいは、誰かとどこかの店で、一日の疲れを癒しながらグラスを傾けているのかもしれない。
まさか、先輩のマンションの下まで来ていますと、彼に連絡を入れる訳にも行かず、五分ほどその場に立ち止まっただけで、すぐにまた駅に引き返した。
駅の券売機にはシャッターが下り、すでに最終電車が行ってしまったのを知る。
さて、このあとどうするべきか。
駅周辺は、電車が走ってなくてもまだ人通りがある。
当然のごとく、タクシー乗り場には長蛇の列。
こうなれば希美香もそこに並んで、祖父母の待つ家に帰るのが真っ当な行動だろうと、あきらめにも似た気持ちで、最後尾に並んだ。
三十分ほど待っただろうか。
乗車まであと一組、と言うところまで来て、希美香は自分でも無意識のうちに、その列から離れてしまったのだ。
駅前のロータリーを過ぎ、先輩のマンションがある方向とは反対側に出て、幹線道路沿いに歩き始める。
そして、数分後、実家近くにもある、馴染みのファミリーレストランに吸い込まれるようにして入って行った。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
四十代くらいの女性店員が、昼間と同じように、元気よくかん高い声で希美香を出迎える。
こんな真夜中でも、ここはまだしっかり日中と変わらぬ時を刻んでいることに驚く。
「一人です」
「お一人さまですね。では、こちらへどうぞ」
メニューを持ったその人に、奥のボックス席に案内された。
本当に気持ちのいいくらいてきぱきとした接客だ。
無性に喉が渇いていた希美香は、迷わずビールを頼んだ。
あまり食欲はなかったが、胃に何もないのもよくないと思い直し、ハンバーグステーキも注文した。
先日のテレビ番組で、人気ランキング上位に食い込んでいた、あのメニューだ。
鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てているハンバーグが、ことりとテーブルに置かれる。
フライドポテトと人参が脇に添えられていた。
ちらほらと座っている客の目に、自分はどう映っているのだろうか。
若い女性が深夜に、それもたった一人でビールをあおり、ハンバーグを口に運ぶ姿は、ある意味、珍しい光景なのかもしれない。
ダイエットに勤しむ年代であるはずの希美香が、こってりとした鉄板料理を食べているのだ。
けれど、今夜は、そんなことはもうどうでもよかった。
これは、明日からの自分に対してのエネルギー補給だ。
希美香は今自分に一番必要な物が何なのか、ようやく気付いたのだ。
それを実行するためには、めそめそと悲劇のヒロインに浸っている時間はない。
とにかく食べて体力を回復させ、嫌なことは忘れるに限る。
すべてはそれからだ。
祖父ともやり合うことになるだろう。
兄夫婦や、両親とも溝ができるかもしれない。
けれど今の希美香には、その方法しか、自分を維持する方法が見出せなかったのだ。
そのためにも、一度自分の原点に戻る必要があった。
食後、何杯コーヒーを飲んだだろう。
窓の外はまだ真っ暗だ。けれど、もうすぐ始発電車が走り始める時刻が迫っていた。
とうとう、祖父には連絡しなかった。
もちろん、祖父からも連絡はない。
ただ一人、姉から希美香を気遣うメールが二通あっただけだ。
お姉ちゃん、ごめんね、私は大丈夫だから心配しないで、と返信して、午前二時に電源を切った。
希美香は、食事の代金を二千円ほど支払い、駅に向かった。
飲み放題のコーヒーが効いたのか、少しも眠くなかった。
ほんの少しさっきより辺りが明るくなったような気がする。
吸い込んだ空気があまりにも冷たくて、慌ててコートの襟を立て首をすくめた。