希美香の恋 その31
「ねえ、ちょっと待ってよ。私には何の話だか、ちっともわからない! お兄ちゃん、しぐれさんって、誰? 」
二人だけでどんどん話を進めていかれても、希美香には断片的な内容しかつかめない。
そもそも、しぐれさんって誰だ。
「そうか……。希美香はそこまでは、あいつから聞いていないんだ」
だから、しぐれさんって誰のことなのか、早く教えて欲しい。
余裕ぶっている兄にいらいらする。
「私が聞いたのは、過去に社会的に影響力のある人と付き合っていたけど、振られたってことだけ。え? ちょっと待って……。う、うそ。そんなこと。あの、もしかして、お兄ちゃんが婚約したことがあったあの人も、しぐれさんって名前だったよね? まさか、その人なの? 」
「大河内が彼女に振られた? そうか、そういうことか……」
何かを探り当てたように、兄が一人納得する。
「いや、だから、お兄ちゃんってば! 私の質問に答えてよ! 」
そんな兄とは反対に、希美香の苛立ちがピークに達する。
「ああ、あの人だよ。婚約していた本田しぐれさんだ。柊、ごめん。こんな話になって。けど、この際、全部吐き出しておかないと、希美香のためにもならない。もしこれ以上聞きたくなければ、席をはずしてくれ」
姉にとって聞くに堪えない話がこれから開示されるのだろうか。
希美香にも緊張が走る。
ところが姉は動じることなく、きっぱりとした態度で兄に言ったのだ。
遥。何言ってるの? わたしは大丈夫だよ、と。
「希美ちゃんの気持ちを思えば、苦しくてかわいそうで、涙が出ちゃったけど。そうよね、この際だから、すべて包み隠さず話すべきだと思う。そうしなきゃ、前へ進めないもの。希美ちゃんとの間にあるわだかまりを、全部取り除かなきゃ」
「わかった。柊、ありがとう」
姉の同意を取り付けた兄が、すかさず希美香に話し始める。
「希美香。実は、あいつが柊と付き合う前、女優の雪見しぐれさんと付き合っていたんだ。つまり俺の婚約者でもあった本田しぐれさんと同一人物だ」
希美香は、一字一句聞き漏らすまいと、兄の声にひたすら集中した。
「それで、ロスに行った時、あいつに向かってしぐれさんが待ってるぞと言ったのは、俺なんだ。純粋なおまえにはキツイ内容になるが、しぐれさんは、俺と婚約中も大河内のことを忘れてはいなかった」
「何、それ。お兄ちゃんって、他の人が好きな女性と婚約してたんだ。お兄ちゃん、最低……」
希美香は耳を疑った。いや、兄の人格すら信じられなくなる。
人はお互いに愛し合っていればこそ、将来を共にと思うものではないのか。
いったいどうなってるのだ。
「最低……か。今の俺なら、そんな婚約がどれだけ無意味なことか、よくわかる。でもあの時はそうするしかなかったんだ。それで、あいつにしぐれさんの事実を告げて、復縁するよう、背中を押したんだ。その後、どんな理由でしぐれさんがあいつを振ったのかは知らないが、確かに彼女はあいつを忘れてはいなかった。これは断言できる。ただ……。あいつがしぐれさんをどこまで思っていたかまでは、俺にはわからない。おい、希美香、どうしたんだ? 」
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんも……。もう、いい加減にして。何がなんだか、私にはちっともわからない。お姉ちゃんだけじゃなくて、お兄ちゃんまで、先輩の彼女と関わっていただなんて。ひどい、ひどすぎる。こんなの嫌! どうしてここまでドロドロなの? そうよ、すべてお兄ちゃんがいけないんだ。お兄ちゃんがお姉ちゃんを、ちゃんとつなぎ止めておかないから、こんなことになったんだ」
自分でも何を言っているのかわからなくなる。
好きでもない人と無理に恋愛関係を続ける理由など、希美香は一切理解できない。
意識が混乱し始める。
「希美香! 」
「お兄ちゃんは黙って! いや、そうじゃない。お兄ちゃんをスカウトした、モデル事務所が悪いんだ。あの仕事さえしなければ、お姉ちゃんと別れることもなかったんだし。そうだ。きっとあの事務所のせいなんだ」
「希美ちゃん! 」
「お姉ちゃんも黙ってて! 」
姉を傷付けるつもりはなかった。
けれど今の希美香には、理性というものがどこかに消え去ってしまっている。
みんなが汚く薄汚れて見える。
こんなに優しい聖母のような顔をした姉でさえ、彼と……そう、大河内先輩と男女の関係を持っていたのだ。
誰だって一つや二つの過去があることくらいわかっている。
希美香自身も、先輩にあこがれの思いを抱きながらも、別の男性に気持ちが傾き、数回関係を持ってしまったことは消すことの出来ない事実だ。
けれど、その元カレは家族や周囲の身近な人とは全くつながりのない単なる同級生だったし、当人同士以外は傷つくこともなかった。
なのに、兄も、姉も。
親族のみならず有名女優一族までをも巻き込んで、そのしわ寄せを妹である希美香が背負うことになるだなんて……。
もう、どうにでもなれと、感情のおもむくままに叫んでいた。
「でも、あの事務所のせいだけじゃない! そもそも、お兄ちゃんを和菓子協会のホームページの仕事に巻き込んだおじいちゃんが悪い。そうよ、おじいちゃんが一番悪いんだ! ああ、もう、嫌っ! 誰も信じられない。お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、おじいちゃんも。大嫌い! 」
希美香は自分のバッグを掴み、玄関まで猛スピードで移動する。
そして、大急ぎでくつを履いて外の共用廊下に飛び出し、ガシャンと乱暴にドアを閉めた。
「希美香、待てよ! こんな夜中に、どこに行くんだ」
玄関のドアを開け、半身を外に乗り出した兄が、少し抑え気味の声で呼び止める。
しかし希美香は、非常階段を脱兎のごとく駆け下りる足を止めることはなかった。