希美香の恋 その29
「希美ちゃん! 」
兄の家に着くなり、玄関で待ち構えていた姉が希美香に駆け寄り抱きついてきた。
「ああ、希美ちゃん、いったいどうしたの? ずっと心配してたんだよ」
突然姉に抱きしめられて驚くと同時に、子どもの頃にも、よくこうやって慰めてくれたことがあったとなつかしく思い出す。
やっぱり姉は昔と同じ、優しい姉のままだ。
希美香にとって、唯一無二の大切な姉であることに変わりはなかった。
身体を離した姉が泣きそうな顔をして希美香を見るものだから、すべてをぶちまけてしまいたい感情にかられる。
けれど、そんなことは出来ない。
目の前の二人に真実を知られることだけは絶対に避けたかった。
「お姉ちゃん、ごめん……。別に何もないんだ。ただ、仕事が忙しかっただけ。帰りも遅いし、疲れちゃって」
「本当に、それだけ? 希美ちゃん、お願いだから本当のことを話して。私たちに気兼ねすることなんて、何もないんだからね。さあさあ、こんなところにいないで、中に入って」
姉に促され、重い足取りで部屋の中に入る。
食卓テーブルのいつもの定位置に腰を下ろし、並んで座る兄夫婦と向き合う形になった。
もちろん、楓はここにはいない。
隣の和室にあるベビーベッドで眠っているのだろう。
リビングはとても静かだった。
しかし、今の姉の質問はいったいどういう意味を含んでいるのか気になる。
私たちに気兼ねすることなんて、何もないんだからと言ったあの言葉が脳裏から離れない。
まさか、大河内先輩とのことを、すでに嗅ぎ付けているとでも言うのだろうか。
「希美香。何があったんだ。事と場合によっては、こっちも黙っちゃいない! 妹一人守れない情けない兄貴だと思われたくないからな」
車の中では一切口を開かなかった兄が、唐突に怒りを露わにする。
これはやはり、何かを知っている。
すでに祖父に何かを聞き出していて、先輩と連絡を取っている可能性も否定できない。
けれど、まだそうと決まったわけではない。
ここは兄たちの出方を伺うのが先決だ。
「だから、何もないってば。ほら、あれだよ。お兄ちゃんたちも知ってるでしょ? 新しいプロジェクトのこと。そのことが思ったより複雑で難しくてね。向こうの希望とこちらの出来ることのすり合わせも時間がかかるし、そうかと思えば、相手会社の担当が急に変わったりして、業務の引継ぎとか、もう大変でさ……」
嘘は言っていない。全部事実だ。
これで納得してくれればいいのだが、何せ百戦錬磨の二人のことだ。
こんなありきたりな理由ごときでは、首を縦に振ってくれないのもわかっている。
「それならいいんだけど……。ねえ、遥。希美ちゃんもこう言ってることだし。あまり厳しく問い詰めたらかわいそうだよ」
「…………」
姉の助言も虚しく、兄は腕を組み口を引き結んだまま、何も言わない。
「仕事が忙しいかもしれないけど、たまには楓の顔を見に来てやってよ。ね、希美ちゃん」
「う、うん……」
結婚しても以前と変わらない真っ直ぐな瞳で語る姉に本心を見透かされるのが怖くて、つい下を向いてしまう。
こんな態度では、自ら例の一大事を暴露しているようなものだ。
もっと自然に振る舞わなければいけないと思えば思うほど、萎縮してしまう自分が居た。
本当は楓を抱っこしたいし、話しかけたいし、今までのようにここに遊びに来たい。
けれど、失恋の痛手は想像以上に深く、完全に立ち直るには、まだまだ時間がかかりそうだ。
こんな暗い顔を楓に見せるわけにはいかない。
それに勘のいい姉にすべてを見破られるのが怖かったというのもあって、兄夫婦に会うのを避けていたのだから。
「希美香」
長い沈黙のあと、兄が何かを決意したかのように、低く重々しい声で話し始めた。
「な、何? お兄ちゃん……」
その先を聞くのは怖いけど、逃げてばかりもいられない。
そうだ、何かあったら、姉が助け舟をだしてくれるかもしれないじゃないか。
それに、近い将来、すべてを知られることだって充分に考えられる。
それが少し早まっただけだと考えれば、何も怖くないと自分に言い聞かせる。
希美香は俯いたまま、兄の声に耳を傾けた。
「プロジェクトを立ち上げた会社のことだけど。TY商事らしいな。じいさんから聞く前に、すでに局内の部署からそのうわさが洩れ聞こえていてね。報道局に常駐していれば、経済関連の情報もすぐに耳に入ってくるんだ」
「そ、そうなんだ」
兄が、少しずつ真相に迫ってくる。もう逃げられないと思った。
「TY商事といえば、昨今の商社の中では最も規模が大きい組織を有することもあって、あいつがこの仕事に絡むことは宝くじの特等に当たるくらい確立が低いと思っていた」
希美香はどきっとして、顔を上げた。
あいつ……。つまり、大河内先輩のことを言ってるのだろう。
兄が知っているTY商事の人と言えば、裕太兄さんと先輩くらいしか思い当たらない。
「けれど、いろいろ調べた結果、どうも俺のいやな予感が的中してるようなんだ。まさかあいつが、この期に及んでまだ俺たちにかかわってくるのかと、憤慨したりもした。が、確かにすぐに担当変更があって、おまえの仕事場から手を引いたと聞いた。おまえも偽名を使っていることだし、あいつもおまえのことに気付かないまま、TY商事側の諸事情で担当を降りたのだろうと思っていたんだ。でもそれ以降、おまえの様子がおかしいと柊が言うんだよ。母親になってから、柊の洞察力は、俺もびっくりするくらい研ぎ澄まされているからな」
姉は、そんなことないけどと謙遜しながら、首を小さく横に振る。
「我が家からおまえの足が遠のいているのは、単純に仕事が忙しいんだろう、とくらいにしか思ってなかった。でも柊の話を聞くうちに、俺もどこかおまえの態度が腑に落ちなくなってきて、先日じいさんに聞きに行ったんだ。そしたら……。仕事のことに関しては、あれほど饒舌になるじいさんが、何も言わず、固く口を閉ざしている。逆に、何かあったというのがまるわかりの態度なんだ。大河内と何かあったのかと聞くと、図星だったんだろうな。じいさんの顔つきがより一層険しくなって、やっと発した言葉が、希美香本人に聞け、とそれだけなんだ。なるほど、やっぱり大河内がこの件に絡んでいるんだと瞬時にわかったよ。なあ、希美香。おまえ、中学生の頃、大河内のことが好きだったよな? 」
希美香は驚きのあまり目を見開いた。
どうしてそんなことまで知っているのだろうと。
そんなプライベートなことを兄に相談した記憶はない。
もちろん、姉にも言ったことがない。
そして、兄のその一言に一番驚いていたのは姉だった。
「え? それ、どういうこと? 希美ちゃんが、大河内君を好きって、その……」
姉は夫である兄の顔と希美香を交互に見て、何度も瞬きを繰り返し、またもや今にも泣き出しそうな顔をして瞳を潤ませていた。