希美香の恋 その28
「希美香さん。泣かないで下さい。私だっていやですよ、あなたとこんな形で別れるのは。でも決めたんです。あなたとの縁談を断ったからには、もう会ってはいけないのです。そして、その縁談を受けるという選択肢も残されていない。希美香さん、私たちは、こうするしかないんです。決して、会ってはいけない二人だったのです」
「先輩……」
「では、これで失礼します。お元気で」
先輩は振り返ることなく、部屋から出て行った。
それはあっという間の出来事だった。
待って、どこにも行かないでとすがる隙も与えられないくらい、彼の行動は素早かった。
何もかも、すべて終わってしまった。
祖父は何年でも返事を待つと自信満々に言い放っていたけれど、先輩の態度を見る限り、それは絶対にないと断言できる。
彼の決意は本物だった。
希美香はテーブルに突っ伏し、声をかみ殺して泣いた。
しっかりと目を閉じて、涙をこらえて泣いていた。
けれど、閉じた瞼のすき間から、容赦なく涙が零れ落ちる。
次から次へととめどなく涙が流れ続けた。
クリーム色のシャツの袖に涙のしみがどんどん広がっていく。
どうして彼と出会ってしまったのだろう。
どうして彼は数ある工房の中からここへ派遣されてきたのだろう。
どうして兄と不仲なのだろう。
どうして姉を奪い合ったのだろう……。
希美香の心の中は答えの出ない疑問で渦巻いている。
彼がこの部屋を出てどれくらいの時間が経ったのだろう。
三十分くらいかもしれないし、一時間かもしれない。
しびれた腕をゆっくりと伸ばし、誰もいない部屋でのっそりと立ち上がった。
そうなのだ。いつまでもこんなところで泣いているわけにはいかないのだ。
未来の見えない恋を引きずっていても仕方ない。
身支度を整えた希美香は社長室を出ると、社員に泣き顔を見られないように俯いたまま本社を後にし、再び工房に向かった。
もう本当に希美香には仕事しか残っていないのだ。
何もかも忘れて仕事に打ち込もうと、意気込みを新たにする。
その日から笑顔を一切見せなくなった希美香は、前橋のどんな仕打ちにも屈服することなく、ひたすら仕事と向き合って、工房と家との往復の日々を貫いていた。
先日から顔を出している新しい担当の社員とも、事務的な会話以外は一切コミュニケーションを取っていない。
先輩よりひとつ年下の担当者は、希美香のあまりにも冷酷非礼な態度に困惑しているようだったが、そんなことはどうでもよかった。
プロジェクト自身も、もう何も魅力を感じない。
投げ出してしまいたいと思ったことも二度や三度ではなかった。
けれど引き受けたからには最後までやり遂げなければならない。
そこだけは希美香も意地を見せ、山積みになっている難題をひとつずつクリアしていった。
楓の写真もすべて消去して、兄や姉との連絡も絶って数ヶ月経ったある日のことだった。
希美香がいつものように夜遅く工房の戸締りをして外に出ると、そこに誰かが待ち伏せしていることに気付く。
「誰? 」
希美香は暗闇に立ちはだかる男性のシルエットに怯えながらも、なんとか気丈さを保ち、か細い声を発した。
でもその人は何も言わず大きなため息だけを闇に響かせ、こちらに近付いてくるではなか。
「誰? 私になんか用ですか? これ以上近づいたら人を呼びますよ」
そうは言っても、こんな時間に外を歩いている人などどこにもいない。
いったい誰に助けを求めると言うのだろう。
警察に通報?
携帯は、カバンの中だ。
今ごそごそとそれを探す隙を与えれば、敵はここぞとばかりに襲ってくるかもしれない。
ならば走って逃げるのみだ。
以前、大河内先輩から、公園で寝ていたことを無防備すぎるとたしなめられたことがあるが、逃げ足の速さだけは自信があるので大丈夫だと言っていたことを思い出し、走り出すタイミングを窺ってはみるのだが……。
この非常事態にそんな根拠のない自信など何の役にも立たないと知る。
身体が強張り、足が一歩も出ないのだ。
先輩の助言は何一つ間違ってはいなかった。
「ふうーっ。ったく、なんだよ」
「……え? あ、あの? 誰……」
こ、これは……。
馴染みのある気配に少し気を取り直した希美香は、その目の前の人に街灯の明かりが当たるように身体を少し横にずらした。
「希美香、俺だよ。変質者扱いか? 」
「あ……」
「なあ、希美香。いったいどうしたんだよ。電話にも出ない。家にも遅くまで帰らない。じいさんに聞いても、わしは知らん、本人に聞けの一点張りだ。柊も心配しているぞ」
「お、お兄ちゃん……。急にこんなところまで来るんだもん。びっくりするじゃない。もうちょっとで通報するところだったんだから。それに私はもう子どもじゃないし。お兄ちゃんやお姉ちゃんに頼ってばかりもいられないの。もう、ほっといてよ。じゃま! そこ、どいて! 明日も早いし、今からおじいちゃんちに帰るんだから」
久しぶりに見る兄の姿にほっとしたのも束の間、いろいろ詮索されないうちにこの場から去ろうと足をふみ出したとたん、またもや行く手を阻まれる。
「つべこべ言わず、とにかく一緒に帰るぞ。おまえが工房に届けている、本当の住所にな」
腕を掴まれ、引きずられるようにして車の後部座席に押し込められた希美香は、急に現れた兄という名の厄介な人物に、無理やりその場から連れ去られてしまったのだ。