希美香の恋 その27
「希美香さん」
こんな状況であるにもかかわらず、いつにも増して柔らかい眼差しをこちらに向けて、先輩が口を開いた。
「はい」
希美香には、これから彼が話そうとしていることが手に取るようにわかった。
もう二度と会えなくなる可能性も含めて、すべての思いをこめてはいと答えたのだ。
「短い間でしたけど、いろいろありがとうございました。この数日間の出来事は、決して忘れることはないと思います」
先輩の声はどんな時でも優しい。
でも今は、その優しい響きが希美香をますます孤独に追いやっていく。
もっと冷たく突き放してくれればいいのにとまで思ってしまうほどに。
「先輩……。こちらこそ、ありがとうございました。私だって、先輩と一緒に過ごした時間は、忘れることはできません。あの、先輩。やっぱり、その……」
結末が見えているはずなのに、まだ先輩にすがってしまう自分がいた。
もう会えないなんて言わないで欲しいと願ってしまう。
けれど奇跡なんてものはそんなに容易く起こるものではない。
「はい。希美香さんも、もうすでにお気づきだとは思いますが。今後、私は、こちらに伺うことはできません」
先輩の答えに少しも迷いは感じられなかった。
希美香の予想通り、先輩の意志は、ひとつの方向に向かって真っ直ぐに進んでいく。
「そ、そんな……」
胸がしめつけられ、きりきりと痛む。
が、しかし、それしかもう道はないのだろう。
「私は、大切な取引先の社長の意に反する態度を取ってしまったのですから、これは当然の結果です」
「当然だなんて……。違います。それは、祖父が勝手に持ちかけた話です。先輩は何も悪くないです。それに仕事とは全く関係のないことですよ? 先輩には何も落ち度はありません。あなたがここを去る理由はどこにもないはずです。先輩が責任を取る必要なんて、何もないです! 」
気持ちが昂り、声を荒らげてしまった。
「希美香さん。どうもありがとう。こんなに親身になって私のことを考えてくださって……。あなたの気持ちは私をとても勇気付けてくれる。けれど、もう決めたことです。今日これから私の上司のもとに出向き、担当の変更を申し出るつもりです。大丈夫です。私の代わりはいくらでも社内にいますので心配は無用です。私よりずっと優秀な社員が、近日中にこちらに派遣されると思います」
先輩が眼鏡の奥にある目を細め、笑顔でさらりと残酷な現実を告げる。
「先輩、あなたより優秀な社員が何だって言うんですか? あなたの代わりなんていません。大河内先輩はあなたしかいないんです! でももう、私が何を言ってもだめなんですね」
「はい」
「わ、わかりました。もう二度とあなたと会えなくなるなんて、想像すらできないけど、これは仕方の無いことですよね? 」
「そうです。もうこれ以上こちらに出入りするわけにはいかないのです」
「はい……。寂しくなります」
「何を言っているんですか。希美香さんには朝日万葉堂の未来がかかっている。寂しがっている暇はありませんよ。今まで以上に仕事に打ち込んでください。そうすれば必ず道は開ける。そしてその先、人生を共にする真のパートナーが現れるかもしれない」
「真のパートナー? そんなこと、どうでもいいです。先輩のような人にめぐり合えることなんて、この先あるとは思えません」
とたん、先輩の表情が曇る。
これ以上彼を困らせるようなことを言ってはいけないとわかっているのだが、本心をごまかすことは出来ない。
先輩にあこがれの気持ちを抱いた時からすでに十年の月日が経っている。
もちろん、その間にまったく出会いがなかったわけではないが、真のパートナーにはまだ一度も巡り会ってはいない。
この先、彼以上の人物に会える気がしない。
「希美香さん。将来のことなんて、本当に誰にもわからないのです。今は何も考えられなくても、時間が解決してくれます。大丈夫です」
「先輩……」
もうこれ以上、何も言ってはいけないような気がした。
先輩も苦渋の決断をしたのだ。もしかしたら希美香以上に苦しんでいるのかもしれない。
「それにしても、よかった」
先輩の口から発せられた意外な言葉に、希美香は思わず首をかしげた。
こんな辛い状況なのに、何がよかったと言うのだろう。
「希美香さんと一緒に飲んだ翌朝、社長から電話がかかってきて。もしあの電話がなければ、どうなっていたか、わからない。こんなにきっぱりとあなたに別れを告げることができたかどうか、自信が無い……」
先輩がテーブルの上でぎゅっと握っている手の甲に、血管がくっきりと浮かび上がっている。
「そうですね。あの時、祖父から電話がなければ、先輩とは、離れられなくなっていたかも……。違う。そうじゃない! 電話なんてあってもなくても、あなたとは離れたくない。やっぱり、こんなのはいやです! これからもうあなたと会えないだなんて、絶対にいやです。うっ……。うっうっ……」
物分りのいい大人の女性を演じるのはもう無理だった。
希美香は両手で顔を覆いながら、思いのたけを告げた。