希美香の恋 その22
「前橋。君の気持ちもわからんでもないが、社長命令だからな。蔵野が期待されているということは、すなわち、当工房の若手の育成が認められた、ということなんだ。我が工房として喜ばしい結果だと捉え、蔵野を支えてやってはくれんか? 」
「そりゃあそうですけど。なんか、蔵野さんばかりヒイキされてるようで、納得できないんです。裏取引でもしてるんじゃないのって考えても不思議じゃないくらい……」
たとえ希美香の努力で掴み取った仕事であっても、ヒイキと取られるなら、もうどうすることもできない。
が、今回の呼び出し理由は明らかに別件だ。
どうして仕事中に呼び出したりなんかするのだろう。
私的な用件は休みの日にすればいものを。
けれど希美香は祖父の手の内にはたと気付いてしまったのだ。
仕事中に呼び出せば、逃げられないからだ。
仕事がらみで呼びつけておけば、見合いをすっぽかされることもないだろうと考えたのだろう。
敵はなかなかの策士だ。
「前橋。いくらなんでもそれは言いすぎだろ。この蔵野が裏取引とか、そこまで腹黒いとは思えないが。まあ、次回、社長と話す機会があったら、前橋のことも使ってもらえるよう、私から直談判しておくから。……ということだ。蔵野、ここはもういいから、早く支度して、本社に向かうように」
「はい。わかりました。では前橋さん、申し訳ありませんが、あとのこと、よろしくお願いします」
前橋は、ちらっとこちらを見ただけで返事もせず、別の作業台へ移ってしまった。
希美香はパートの従業員によろしくお願いしますと何度も頭を下げて仕事を引き継ぎ、それから二十分後には、最寄の駅から電車に乗り込んでいた。
八階建の本社ビルは、まだ竣工して間もないせいか、内装の接着剤の臭いが時折り鼻につく。
普通、社長室は最上階にあることが多いはずだが、祖父の理念は世間一般とは少し違っているのか、二階の営業フロアの片隅にその部屋がある。
会議用の机と椅子が置かれているだけの殺風景な小部屋のドアの前に立ち、呼吸を整えて、静かにノックした。
そこには、祖父と秘書の武本がいた。
もう六十歳を迎えようとしている武本は、祖父の右腕とも言える、やり手の男性秘書だ。
彼は経営陣の親戚以外に希美香の素性を知っている、唯一の社員でもあった。
「ようこそ、蔵野希美子さん。さあ、どうぞ。社長が、お待ちですよ」
武本がいつもの笑顔で希美香を出迎えた。
彼は、一度たりとも偽名を間違えたことが無い。
あまりにも徹底した彼の芝居ぶりに、本当に社長の孫であることを忘れてしまっているのではないかと思ってしまうくらいだった。
「おお、希美香。よく来たね」
あの怒りの電話をかけてきた張本人だとは思えないくらい優しい笑顔で、社長室に希美香を招き入れる。
「ん、もう、おじいちゃん。何なのよ。どうしてこんな時間に呼ぶの? 仕事がやりにくくて困ってるんだから」
希美香は周囲をぐるりと見回し、武本以外誰もいないのを確認すると、小さな声で、けれど思いっきり不満げに祖父に愚痴った。
「ははは。そうか、やりにくいか。でも希美香は、わしがどうしておまえをここに呼んだのか、もうわかってるんだろ? 」
「わかってます! あれでしょ? 夕べ言ってた、お見合いっぽい、あの話」
「ははははは。やっぱりバレていたな。こうでもしないと、おまえはその人と会ってくれないだろ? 」
「あたりまえじゃない。だって私、結婚なんて、したくないもん。っていうか、する必要なんてないし」
「ほう、なかなか手厳しいな」
「跡取り問題なら、私が引退した後は、親戚の誰かを据えればいいわけだし。でもね、おじいちゃんの顔をつぶすわけにもいかないでしょ? だから、その人と会うだけ。それだけなら、私も譲歩する。そして、その人に呆れられるようにして、向こうから断らせるから」
「おいおい、希美香。それは穏やかじゃないね。まあ、今はそう言っていなさい。わしの目には狂いはない。おまえにはもったいないくらいの人だよ。あっ、来たようだね。武本、彼をここに通しなさい」
今、ドアをノックした人が、その人らしい。
武本がはいと言って、ドアを開けた。
「失礼します」
そう言って、その人がゆっくりとこちらに近付いてくるのがわかった。
希美香は一切振り向かず、背筋をピンと伸ばして微動だにせず座っていた。
これも作戦のひとつだ。
誰がそんな知りもしない相手に愛想をふりまくものかと、この上なく無礼で気の利かない女になりきっていた。
今まさに戦いの火蓋が切られようとしている。
希美香はその瞬間を、徹底的な上から目線で、したたかに待っていた。