希美香の恋 その19
「蔵野さんの携帯のようですね」
「あ、はい。多分、電話だと……」
「どうぞ、出て下さい。もしかしたら、お姉さんじゃないですか? 」
「いや、いいんです。あとでかけ直しますから」
せっかくのムードをぶち壊したバッグの中のスマホが、憎かった。
もう少しで、先輩と夢のようなひと時を過ごせたかもしれないのに……。
けれど、現実はそう甘くはなかった。
今のは姉からの電話ではない、祖父からだと、なぜかそう思った。
そして一旦切れたはずの電話が、再び振動音を響かせ始めた。
「蔵野さん、電話に出た方がいい。よかったら、私も代わりましょうか? 蔵野さんは悪くない。すべて、この私の責任ですから。お姉さんに事情をお話ししますよ」
「え? それはいいです。あの、私の責任ですから。大河内さんに何も責任はないですから。それでは、すみませんが、少しだけ時間を下さい……」
大河内先輩に代わるだなんて、とんでもない。
仮に相手が姉であっても、祖父であっても、それだけは絶対にあってはならないこと。
希美香は大慌てでスマホを取り出し、玄関ドアの前に移動して小さな声で話し始める。
「も、もしもし……」
『おい、希美香! 今、どこなんだ。どうして帰って来ない! 』
やはり祖父だった。
耳が破けそうなくらいの怒声が響く。
それに、電話嫌いの祖父が希美香のスマホに直接電話をしてくるということが、非常事態を物語っている。
相当厳しい局面を迎えていると思って間違いない。
「おじいちゃん、ごめん。あの、ちょっと体調が悪くなって、その、友だちの家に、泊めてもらったから……」
いくら小声で話していても、大河内先輩に会話が筒抜けになってしまう。
祖父の声も洩れ聞こえているだろう。
おじいちゃんと言った瞬間、先輩の表情が険しくなったように見えた。
『希美香、体調が悪いのか? どんな具合なんだ』
「飲みすぎただけだよ。もう大丈夫だから」
もう大丈夫だという部分を、強調して言った。
『どうして家まで送ってもらわないんだ。誰だ、その友だちは。専門学校時代の仲間か? 』
「うん、まあそんな感じで……」
『そんな感じとは、どんな感じだ。おまえの言うことはよくわからん。とにかくその友だちに電話に出てもらいなさい』
げっ……。それだけは勘弁して欲しい。
何が何でも阻止しなくては。
「え? だ、大丈夫だよ。それは、いいから」
『何がいいんだ。ちゃんと礼を言わなければならんだろ? 早く、代わりなさい』
「おじいちゃん、それがね、友だちは今日早出で、もう仕事に行ってしまったんだ。私から友だちにちゃんとお礼は言っとくから。だからね、心配しないでよ。あ、いけない、そろそろ工房に行く時間だ。じゃあね、おばあちゃんにもよろしく。今夜はちゃんと帰るからね」
そう言って、そそくさと電話を切った。
最後はもう何を言ったのかもわからないくらい焦っていて、とにかく電話を切ることしか考えていなかった。
正直な先輩のことだ。
もし電話を代わったりしたら、大河内ですと名乗ってしまうだろうし、蔵野さんは……と語られた時点で、学生時代の友人でないことがばれてしまう。
学生時代はきちんと本名の堂野姓で過ごしていたのだから、蔵野と呼ばれた時点で、アウトだ。
とにかく今はこうするしかなかった。
先輩と祖父の直接会話だけは、どうしても避けたかったのだ。
こんな醜態を見られてしまい、先輩もあきれてしまったことだろう。
それも相手が姉ではなく、祖父だったものだから、余計に不審に思っているに違いない。
「蔵野さん。大丈夫ですか? 私が電話に出た方がよかったのでは。それに今の電話はお姉さんではなくて、おじいさんですよね? あなたを無断でここに泊めてしまったことが、ご家族を不安にさせて、騒ぎを大きくしてしまったのではないでしょうか」
「す、すみません。祖父は心配症で、姉から話を聞いて、私に電話してきたみたいです。もう大丈夫ですから。気にしないで下さい。大河内さん。夕べの食事会、とても楽しかったです。またご一緒させてくださいね。そろそろ始発電車も動き出す頃だし、工房に行かなくちゃ……って、すみません、ここ、どこでしたっけ? そうだ、GPS……」
甘いムードもいつの間にかどこかに消えてしまい、ここはとっとと去るのがいいだろう、と思ったのも束の間、先輩のこのマンションがいったいどこにあるのかわからないという重大な過ちに気付くのだ。
「あははは。ここがどこかもわからなくて、どうやって工房まで行くんですか? GPSなんて、使わなくてもいいですよ。さあ、今から一緒に朝ごはんを食べて、それから工房まで送りますから。大丈夫です。七時までには工房に着きますから。それならいいですよね? 」
「あ、はい。ありがとうございます。本当に、何から何まで、すみません。」
希美香は気持ちばかり先走る自分が恥ずかしくなった。
けれど、先輩と二人で朝ごはんを食べるのは、もっと恥ずかしい。
どんな顔をして、食べればいいのだろう。
どうぞ顔を洗って下さいと言って、タオルを渡される。
希美香は顔を真っ赤にしながら、洗面所の鏡に自分のありのままの姿を映し、恥ずかしさのあまりタオルに顔をうずめた。