希美香の恋 その18
「やっぱり、やめました」
よ、よかった。希美香はほっと胸を撫で下ろす。
いたずらっぽい笑顔を浮かべる大河内先輩に、また違った一面を見たような気がした。
「職場での人間関係に悩んでおられると聞いているのに、そんなことをしたら、ますます蔵野さんの立場が悪くなってしまうのではないかと思ったのです」
「ありがとう……ございました」
先輩は察してくれていたのだ。
まだ出会ってからほんの数日しか経っていないのに、彼の洞察力には頭が下がる。
「でも、私も男です。夜中に自宅マンションに女性を入れたとなると、世間の目はそれなりの判断を下すでしょう。あなたに迷惑がかかるかもしれないのに、部屋に泊めてしまったことは、うかつな行動だったと反省しています。無理にでもあなたから住所を聞き出して、送り届けるべきだったと……」
「大河内さん……。あの、そんなに気を遣わないで下さい。別に誰も何も言いませんよ。こちらこそ、失態をお見せしてしまって、おまけに、大河内さんのベッドまで占領してしまって。本当にすみませんでした」
ベッドの上で正座して、何度も何度も頭を下げた。
そのたびにガンガンと頭痛がするのだが、そんなこと言ってられない。
先輩はいったいどこで寝たのだろうか。
ワンルームの室内を見渡してみても、ソファも布団も見当らない。
床に座ったまま夜を明かしたのだとすれば、一睡もしていない可能性もある。
「そんなに、謝らないで下さい。食事に誘ったのはこの私です。すべて、私の責任です。けれど、これだけは言わせて下さい。あなたがここに泊まったことを、迷惑だなんて、少しも思っていませんから。こんなに長い間、蔵野さんと一緒に過ごせて、よかったなと思っています。いや、とても幸せなひと時でした。帰りたくないと言って、私に抱きついてきたあなたが、とてもかわいかった……」
だだだ、抱きついた、だって?
帰りたくないと言ったのは認めるが、この私が男の人に、それもあこがれの雲の上の存在でもある先輩に自分から抱きついただなんて、ありえない。
きっとそれは先輩のちょっとしたジョークなのだろうと思った。
それくらい、希美香にとって信じられないことだったのだ。
「そうか、蔵野さんはそのことも憶えていないかもしれないですね。それと、私のことを先輩? と言っていました。きっと、あなたにとって、忘れがたい素敵な思い出の人がいるんだろうなと、少しだけ嫉妬させてもらいましたよ」
嫉妬って、それってもしかして、私に興味を持ってくれているってことだろうか……。
希美香は嬉しすぎて、にやけそうになる自分を抑えるのが大変だった……なんてことはどうでもよくて、彼に向かってダイレクトに先輩と呼んでしまっていたことが、大問題だ。
それと忘れがたい素敵な思い出の人は大河内さん、あなたですと言いたいのをグッと我慢する。
すべてを総合すると、先輩に抱きついた事実はやはり本当だったのだろう。
そういえば、そんな気もする。希美香は俄かに焦り始めた。
他に何か余計なことを言ってないだろうかと不安になる。
「本当に、本当に、すみませんでした。抱きついたりなんかして、ごめんなさい。何も憶えてなくて、もう、どうしたらいいのか」
こんなことで嫌われたら、仕事にも悪影響だ。
なんてことをしてしまったのだろうと悔やまれる。
「仕事のストレスや、家の跡継ぎのことなど、女性のあなたが背負っているものが、時に重過ぎるのですよ。そして、たまたまそばにいた私にその荷を預けてくれた。それだけのことです。何も力になれませんが、私に出来ることなら、何でもします。前にも言ったでしょ? 蔵野さんとは、どういうわけか、初めて会った気がしないって。なぜか放っておけなくて、気になって。もうすでに私の心の中は、あなたでいっぱいになってしまったのかもしれない」
「大河内さん……」
どうしよう。先輩がじっとこっちを見ている。
その目に吸い込まれそうになる自分がいた。
けれど、先輩は夕べはっきりと言ったのだ。もう恋愛はこりごりだと。
希美香自身も仕事にこの身を捧げ、恋愛はしないと決めたはずだった。
お互いが惹かれあう引力みたいなものが存在するのだとすれば、それが今のこの瞬間ではないだろうか。
次第に彼の顔が近付いてくる。
いつしか手を取り合い、そして、口びるが触れようとしたその時だった。
物音ひとつしない早朝の室内空間に、振動のような音が鳴り響いた。
発信元は希美香のバッグだ。
それがスマホの振動音だというのに気付くのに、時間はかからなかった。
そして、その発信相手が祖父かもしれないと、最悪のシナリオが希美香の胸中を駆け巡った。