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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
特別編1 希美香の恋
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希美香の恋 その16

「あ、あのう……。ごめんなさい。なんか私、大河内さんを困らせてしまったみたいで……。そんなつもりはなかったのに、本当にすみませんでした。そうだ、もう遅くなったし、そろそろ帰らなきゃ。今日はどうもありがとうございました」


 希美香はバッグから財布を取り出し、椅子から立ち上がろうとしたのだが、今度は大河内先輩がそれを許さない。


「蔵野さん、気遣いは無用です。そうなんです。私がその事実から顔をそむけていては、前に進めないのはわかっているのです」

「大河内さん……」


 希美香は行き場を失った財布を片手に、身動きが取れなくなってしまった。

 まさか先輩の口からこんな話が飛び出すなんて、全く予想していなかっただけに、どんな言葉をかければいいのか戸惑うばかりだ。

 先輩がプロポーズをした相手とは、まぎれもなくついさっきメールを送信してくれた姉以外、他に誰も考えられない。


「この話を誰かにするのは、蔵野さん、あなたが初めてです。家族にはもちろんのこと、友人にも言っていない。いや、言えるわけないんです。彼女が本当は誰のことを思っているのかを知りながら、ある意味、略奪まがいのことをしてしまったのですから。でも、その後も決していい人生は待ってはいませんでした」


 もう先輩の顔すら見ることは出来ない。

 やっとのこと財布をバッグに戻した希美香は、何も言わず、うつむいたまま話を聞くのが精一杯だった。


「蔵野さん、私はこの先、一生結婚できないのかもしれません。恥ずかしい話ですが、好きになった人には振られてばかりで……。実はこの失恋のあと、学生の頃東京で出会って付き合っていた人に復縁を申し出たのですが、再び振られてしまいました」

「そ、そんな……」


 世の中には、こんなに素敵な大河内先輩を振る人が何人もいるらしい。

 姉の場合は兄との絆が強すぎたのが原因だと思うが、他にも彼を振る人がいるなんて、そう簡単には信じられない。

 私なら二つ返事でオッケーしてしまうだろうと、希美香は瞬時にそう思った。


「その人は少し特殊な仕事に携わっている人で、当時、彼女と付き合えただけで舞い上がっていた私は、何を勘違いしたのか、別れた後もまだ私のことを待ってくれているなどと都合のいいことを考えていました。現実はそんなに甘くなかった。すでに彼女は、同業の若い男と付き合っていて、一緒に暮らしているとまで言うのです。かなり社会的にも影響力のある二人なので、近々多くの人が知ることになるのかもしれない……。結局、私の立ち入る場所は、もうどこにも残されていなかった、というわけなんです。それはもう、さんざんな人生です」


 信じがたい話だが、全て真実なのだろう。

 特殊な仕事に携わっている人とは、いったいどんな人なのだろうと気になるところだが、別に希美香には関係のないことだし、聞いたところでますます彼を苦しめてしまうことが予測できるだけに、これ以上細かいことには触れずに聞き流そうと判断した。


 整った容姿に秀でた頭脳。

 そして、仕事に対する見事な判断力や人に対する優しさなど、何でも兼ね備えている先輩の人生とはとても思えないくらい、哀しいカミングアウトのオンパレードに、ついついグラスに手がのびてしまう。

 アルコールを(あお)らずにはいられないのだ。

 三本目のワインも、すでに半分ほどになっていた。


 彼の話を聞きながら、希美香は自分の人生と重ね合わせてみた。

 するとどうだろう。よく似ている気がするのだ。

 希美香の初恋の人は、目の前の大河内先輩だが、彼は人気者すぎて、告白どころか話しかけることすらままならない相手だった。

 もちろん片思いのまま、先輩は卒業していき、その恋はあっけなく終わりを告げる。


 その後も、告白される人に心が動かされることは皆無で、ようやくときめいたのは、少しだけ先輩に面影の似た高校の同級生だった。

 彼も希美香のことが好きだったようで意気投合して付き合い、関係を持った初めての人でもある。

 にもかかわらず、東京の製菓専門学校に進学するのを機に泣く泣く別れ、それっきり会うことも無かった。

 今となっては、彼に会いたいとも思わない。

 いったいどんな恋愛だったのだろうと我ながら不思議な気持ちになるくらい、未練のかけらも残っていないのだ。


 祖父の店を継ぐと決めた時から、結婚はあきらめていたように思う。

 もう、誰とも恋愛なんかしない、仕事のことだけを考えて生きていこうと決めたのは、誰に言われたわけでもなく、自分自身だったはずだ。


「あの、大河内さん。人生って、恋愛だけじゃないと思うんです。今日一日、同行させていただいて、大河内さんの仕事に対する真っ直ぐな姿勢にとても心を打たれました。頭で考えるだけじゃなくて行動することの大切さを身を持って教えてもらったような気がします。私もいろいろあって、恋愛はしないと決めています。この仕事を死ぬまでやり抜く覚悟で、日々戦っているつもりなんです」

「蔵野さん。まさか、あなたにそんな風に言ってもらえるなんて……。もう私には、仕事しか残っていないのです。ありきたりな言葉ですが、仕事が恋人みたいなものです。ワインの力も借りて、ついついあなたの優しさに甘えて私の最低な話をしてしまいましたが、自分の甘さに気付かせてもらういいきっかけになりました」

「いや、そんな……。私なんかがえらそうなこと言って、ごめんなさい」


 妙に神経が冴えていて、先輩を前に、すらすらと言葉が出てきたのだ。

 やっぱりこれも、ワインの力なのかもしれない。


「いいえ、えらそうだなんて、そんなことありませんよ。私の方こそ、あなたからいっぱい刺激を受けました。知り合いの関係する職場だというだけで、尻込みしていた自分が恥ずかしいです。けれど、なぜ蔵野さんは、恋愛はしないと決めているのですか? まだ若いし、これからたくさん出会いもあるんじゃないですか? こんな私が言うのも何ですが、仕事をしながら恋愛をするなんて、普通のことだと思いますが」

「それは、その……。実は、実家が」


 なんて苦しいんだろう。これ以上先輩に嘘をつくのはもう無理だ。

 かと言って、社長の孫だというのは絶対に口が裂けても言えない。

 ジレンマに押しつぶされそうになる。キリキリと胃の辺りが痛んだ。


 けれど、日本国内には数え切れないほどの和菓子屋があるだろうし、店名さえ隠しておけば、ある程度の事情を話すのはかまわないのではないかと都合のいい解釈が脳裏をよぎる。

 希美香は自分が背負っているものを、そっと下ろしてみたくなったのだ。


「実家が、和菓子屋を営んでいるんです。あの……。姉夫婦が後を継がないので、私が継ぐことになって。朝日万葉堂で修行をして、いずれ、実家の店に戻ることになる予定なんです」


 話し終えて、ふーっと深呼吸をした。

 なんだか隠し事がなくなったようで、少し心が軽くなった。


「そうだったのですか。どうりで若いのに、いい商品を作られるわけだ。でもどうして店を継ぐのと恋愛禁止が関連するのか。別に両立すればいいと思うのですが」

「この通り、私って、どうも不器用なんですよ。仕事と恋愛の両立なんて、到底出来そうになくて……」


 ああ、言いたい。

 本当のことが言えたら、どれだけいいだろう。


 実家の店とはつまり朝日万葉堂のこと。

 祖父の努力の結果、日本でも有数の生産量を誇り、業界ではかなり大きな企業として成長を遂げ、位置づけられてしまっている。

 国内に数え切れないほどある店舗をはじめ、工場や今希美香が勤務している小さな工房も含めると、それは気の遠くなるほどの規模になる。


 それらをすべて統率していく技量を身につけるためには、おちおち恋愛なぞしていられるわけがないのだ。


 空になったグラスに先輩がワインを注いでくれる。

 少し天井が回っている気がしないでもないが、希美香は勢いに任せてそれを喉に流し込んだ。


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