希美香の恋 その15
調子に乗って言わなくてもいいことまでしゃべってしまったではないか。
実際は駅に着いたよ、と電話すれば迎えに来てくれるのは祖父だ。
気難しい義兄など、本当は一緒に暮らしてなどいないし、義兄ではなく実兄なのだか、ら気難しくても一向に問題はない。
お兄ちゃんの頑固者! とひと叫びすれば済む話だ。
姉もすぐに加担してくれるので、今となっては兄を黙らせることなど簡単すぎる。
姉に全く頭の上がらない兄は、家事も率先してやるし、娘の世話も天下一品だ。
「あの……こんな身内話をしてしまって、ごめんなさい。でも本当に帰りは大丈夫ですので……」
「わかりました。では、蔵野さんのおっしゃるとおりにさせていだきますね。じゃあ、乾杯しましょうか。今日は、お疲れ様でした」
大河内先輩はグラスを手にして、希美香の持ったグラスにコチッと合わせた。
「乾杯。大河内さん、こちらこそ、今日はありがとうございました」
仕事とはいえ、先輩と二人で過ごした時間は、希美香にとって何物にも代えがたい貴重な体験だった。
魚料理をメインに、煮込み野菜や、変わり寿司が運ばれてくる。
和食のような、洋食のような……。
けれどエスニック料理とはまた一線を画すバラエティー豊かなメニューが、ところ狭しとテーブルに並ぶ。
「蔵野さん、私がこの店にお連れした理由がおわかりになったみたいですね」
真剣な眼差しで料理に見入っている希美香を見て、大河内先輩が頷きながらそう言った。
「ええ、まあ……。もしかしてこちらのお店は、和食を基本にした創作料理のお店なんでしょうか。私が手がけている創作和菓子とどこか空気感が似ているような気がしました」
「さすが蔵野さん。そうなんです。私もそう思ったものですから。でも、とても自然でしょ? 案外、家庭でも、このようにジャンルわけできないような料理っていっぱいありますよね? 海外からのお客様にも好評なんですよ」
希美香はお腹がいっぱいだったはずなのに、夢中になって次々と料理を口に運んだ。
どれも彩りが美しく、和食の繊細さを存分に発揮した盛り付けだった。
けれど味はブイヨンの風味が漂ったり、隠し味にチーズが使われていたりしていて、飽きることなく箸が進む。
芳醇な香りが漂う白ワインは意外にも国産のもので、とても口当たりがよく、飲みやすかった。
産地の違う二本目のワインも、先輩との語らいの中、いつの間にか空になっていく。
「あ、もう、こんな時間か……。蔵野さん、十一時を回りましたよ」
大河内先輩がシャツの袖をスッと横にずらし、腕時計を見て言った。
「そうですか? 早いですね。楽しい時はすぐに過ぎちゃいますね」
「そうですね。まだまだいっぱい話しをして飲みたいところですが、そろそろお開きにしないと、今日中に帰れなくなってしまいます」
「まだ、大丈夫ですよ。終電に間に合えばいいので。そんなことより、もっとさっきの話、聞かせて下さいよ」
希美香は当然、帰る気などこれっぽっちもなかった。
海外勤務中の食生活についての話は、先輩の話術の巧さも手伝って、とても興味深い内容だったのだ。
「この話にこんなに関心を持ってくれる人は、蔵野さん以外、まだ出会ったことがありませんからね。食の文化に興味のある私にとって、蔵野さんは、やっと出会えた同志といった存在でしょうか。じゃあ、あと少しだけ、続きを話しますね。で、ロスでよく行った行きつけのレストランで……」
そこまで話して、突然先輩が黙り込む。いったいどうしたというのだろう。
「蔵野さん、すみません。この話は、もうこれ以上は……」
大河内先輩はまだワインが半分以上入っているグラスを置き、ふうっと大きく息を吐いた。
とても辛そうだ。
「大河内さん、どうされましたか? どこか具合でも悪いのでは……」
先輩の顔を心配そうに窺い見た。
「蔵野さん、本当にすみません。どこも具合なんて悪くないんです。ただちょっと、いろいろ思い出してしまって。行きつけのレストランには、おいしい料理以外に、ちょっと悲しい思い出もあって。ちゃんとけじめをつけて前に進んだつもりだったのですが、やっぱりダメですね。ふとした拍子に当時の思いが、どっとよみがえる」
「当時の思い、ですか? 」
「はい。まあ、いろいろとありまして」
「よかったら、話してみて下さい。その方が楽になるんじゃないですか。慣れない外国暮らしで、大変だったんですよ、きっと」
新しい職場での人間関係の構築だけでも大変なのに、言葉の壁もある。
今、希美香が置かれている状況より、もっと過酷な毎日だったのだろう。
「蔵野さん、あなたは本当に優しい人ですね。こんな私の話を聞くと言ってくれるなんて」
そう言って、大河内先輩は、再びグラスを手にとって一気にワインを飲み干した。
「実はその店で、当時付き合っていた彼女に結婚を申し込んだんです。昔好きだった同級生の彼女とロスで再会して、そして付き合うようになって。でも……」
先輩はそのあと口をつぐんだまま、空になったワイングラスをじっと見つめていた。