希美香の恋 その14
送信者は、なんと姉だったのだ。
絶対に画面を見られてはいけない。
先輩の視線を遮るように、低い位置に隠して文面を覗き見た。
希美ちゃん、今どこにいるの?
まだ仕事中かな?
おじいちゃんから電話があったよ。
希美ちゃんがまだ帰って来ないって、心配してた。
また楓に会いに行ってるのだろうと思ったらしくて
うちに電話をかけてきたの。
もし仕事中なら、希美ちゃんに迷惑をかけるから
わたしからメールしておいてって、頼まれた。
おじいちゃんはメールとか苦手だものね。
そうそう、楓は元気だよ。
最近、希美ちゃんに会えないからかインターホンが鳴ったら
手足をバタつかせて玄関の方を見てるの。
きっと希美ちゃんが来るのを待ってるんだと思う。
楓は希美ちゃんが大好きだからね。
遥にそっくりな顔をして、今はぐっすり眠ってるよ。
忙しいだろうけど、おじいちゃんに電話してあげてね。
じゃあ、またね。お仕事、がんばってください。
楓はもう寝てるんだ。会いたいな。
今度いつ行けるかな、でないと私のことを忘れてしまう……。
なんてのん気なことを考えている場合ではない。
大変だ。うっかりしていた。
家に連絡を入れるのを忘れていたのだ。
それでなくても心配性な祖父のことだ。
こうなることくらいすぐに予測できたはずなのに、先輩と食事に行くと決まった瞬間から、希美香の通常モードの思考回路が遮断されてしまったようだ。
「大丈夫? もしかしてご家族の方ですか? 」
「あ、大丈夫です。姉からです」
「お姉さん? そうなんだ。蔵野さんはお姉さんがいらっしゃるんですね」
「は、はい。私、姉の家に居候してるんです。それで、今夜は遅くなるってこと、連絡しそびれてしまって」
「それは申し訳ないことをしてしまった。私が引きとめてしまったばかりに。お姉さんが心配されていたのですね」
「いや、全然、大丈夫なんです。気にしないでください。あの、ちょっと電話してきます。メールで返信するより早いんで」
希美香はすっと立ち上がり、化粧室に向かった。
まさか先輩の目の前で祖父に電話するわけにもいかず、仕方なく席を外したのだ。
まず姉にメールの返信をした。
特に遅くなった理由は知らせず、取り次いでくれたことの礼だけを記し、超高速で文面を仕上げて送信した。
次は祖父だ。電話をかけ、友だちと食事してて遅くなると手短に伝えた。
すると、何でもっと早く連絡して来ないんだ、おばあちゃんも心配してるぞ……といつものように説教が始まったが、じゃあねとだけ言って、そそくさと電話を切った。
いくら仕事から派生した食事会だとしても、先輩の名前を出すのはためらわれる。
いろいろ詮索されても困るので、友だちという無難なワードを使ってこの場を切り抜けた。
祖父母には申し訳ないが、今夜はこれで許してもらおう。
鏡を見て薄くリップを引き直す。
上着の襟元を整えて化粧室を後にした。
「すみませんでした」
希美香がテーブルに戻ると、すでに注文の品が並べられ、グラスには白ワインが注がれていた。
「随分早かったですね。もういいのですか? 」
「ええ。食事して帰るので遅くなると言っておきました」
「そうですか。でもまあ、あまり遅くならないようにしなくてはいけませんね。日付が変わらないうちに、蔵野さんをちゃんと家に送りますからね」
「あ、お気遣いありがとうございます。でも送っていただかなくても、私はこのとおり普通の女性よりたくましいですから。充分一人で帰れるので、心配なさらないで下さい」
どんなに遅くなっても、今まで一度たりとも怪しい輩に絡まれたことはない。
仮に何かあったとしてもこの自慢の足で逃げ切る自信はある。
その辺の男には負けないくらいの瞬発力と持久力を駆使すれば、護身は完璧だ。
それに送ってもらうのはどうしても避けたかった。
だって、そこは姉の家ではなく祖父の家だし、誰の目から見ても希美香とは不釣合いなくらい大きな門構えのある邸宅で、表札を見られたら最後、社長宅に住んでいるのがバレてしまうからだ。
「あははは。蔵野さんは、頼もしいな。でもまあ、そんなことおっしゃらずに、少しは私に甘えて下さいね。こちらはあなたに無理ばかり言ってますから。何でも遠慮なくおっしゃってください」
「あ、はい。なんか、すみません」
「何をおっしゃっているのですか。それと、今日の昼にも言いましたが、蔵野さんはまぎれもなく素敵な女性ですから。過信は禁物ですよ。今までは運がよかっただけです。世の中には変質者も多い。朝日万葉堂の宝でもあるあなたを、私の都合で振り回した挙句、帰宅途中にトラブルに巻き込まれるようなことだけは絶対にあってはならないですからね」
「わかりました。で、でも、本当に大丈夫なんです。そうだ、駅まで姉に迎えに来てくれるように頼みます。姉がダメでも、旦那さんもいるし。気難しい義兄だけど、姉には甘いので、姉の一言ですぐに迎えに来てくれるんです」
「そうなんですか? お姉さんにもご迷惑をかけてしまいますね。気難しい旦那さんか……。蔵野さんもいろいろ大変だ」
「あ、いや、そうでもないです……」