希美香の恋 その13
まるで会員制のクラブのようなその店に先輩の後ろからついて行く。
すると中から落ち着いた声が響いてきた。
「いらっしゃいませ、大河内様。お待ちしておりました。奥の部屋をご用意しています。どうぞ」
暗すぎず明るすぎず、ちょうどいい光の加減の中、個室のような部屋に通された。
もちろん、完全な個室というわけではなく、隣の席の客とは顔は合わさない程度の壁で仕切られていて、程よい空間のように見受けられた。
「さあ、座って」
向かい合わせになって腰を下ろした。
すると大河内先輩は早速メニューのような物を開き、注文を始める。
「……以上でよろしいでしょうか。では、しばらくお待ちください」
そう言って、さっきで迎えてくれた人とは別の店員が注文を受け、頭を下げて去っていった。
「ね、中は普通の店でしょ? 店主が某料亭で修行を積んで、この店を始めたんです。元々は高級なバーのような店だったところを改装して、このような料理屋をやっているんですよ」
スーツの上着を脱いだ先輩が、流れるような動きでネクタイを緩めた。
喉元が露わになる。
とてもなめらかな肌が彼らしさをますます誇張するようで、目が離せなくなる。
希美香の心臓が再び暴れ始めるのに時間はかからなかった。
……先輩、それは反則です。
気持ちの高ぶりを悟られないよう、小さく深呼吸をして、会話を続ける。
「あ、あの……。ドレス着てる人がいるようなところだったら、どうしようかと思って、緊張しました。でも素敵ですね。こんな隠れ家みたいなお店、なかなか見つけられないです」
「ネットでもグルメサイトでは紹介されていない店なので、あまり知られていないみたいですね。学生の頃、バイト先の上司に連れて来てもらったのが最初で、私も蔵野さん同様、大変緊張しました。あの扉を見たとたん、自分の来る場所ではないような気がして、すぐに帰りたくなったくらいです。でも店主の心遣いとおいしい料理にすっかり魅せられて、今日に至っている、というわけです」
「大河内さんでも、そんな気持ちになるんですか? 」
「あたりまえですよ。東京に出てきてからは、経済的には苦しい暮らしでしたからね。親の意向に反した生き方を選択したものですから、仕送りはゼロ。学費も奨学金でまかないました」
「そうなんですか? すごいですね。立派だと思います。私なんか、ずっと親や家族に甘えっぱなしで」
「いえ、それは普通のことですよ。私が親に反抗的だったばかりに、自ら苦しい生き方を選択してしまっただけです。蔵野さんはしっかり技術を身につけて、こんなにお若いのに、社長からの信頼も厚い。稀に見る逸材だと、褒めていらっしゃいましたよ。あなたが開発した秋の新作を試食させていただきましたが、本当に感動のひとことでした。繊細で、味も極上でした。そして、それを作ったのが今私の目の前にいる蔵野さんなんですよね。いまだに信じられない思いです。それくらい衝撃的でした」
「そ、そうですか。いや、そんなに褒めてもらっても何にも出ないですけど。社長は、若手の芽を潰さないように、うまく育ててくれているだけで、私が特別な技術があるとかはないですから。えへへへ」
またもや祖父の買い被りが出たみたいだ。
普通、身内をそこまで褒めるだろうか。ありえないし……。
とその時、希美香はある答えを導き出していた。
もしかして祖父は、そのあたりの人間の心理をうまく利用して、希美香が他人であることを確固たる物にするために、わざと褒めるということを実行してくれているのだとしたら……。
それなら納得できる。
希美香を褒めることで、周囲の人たちから、さらに孫であることを隠し通せるという作戦だ。
その証拠に、大河内先輩も、全く気付いていない。
そうだとしたら、おじいちゃん、マジですごいよ!
「蔵野さん、あなたは本当にいい人ですね。とても謙虚な方だ。なんだか心がなごみます」
それは違う。謙虚どころか、素性を隠すため皆に嘘をついている、
悪徳業者ならぬ、悪徳詐欺師だ。
「そんなこと、ないです。いい人なんかじゃないですよ。職場の人間関係もうまくやれないし、性格が歪んでるのかなって、最近、ますます自己嫌悪な日々です」
「そうですか? そんな風には見えないな。気遣いもできるし、ムードメーカーでもあるし。職場が明るくなるんじゃないですか? 蔵野さんがいたら」
すると、希美香のバッグの中でスマホがポッと音を立てた。メールの着信だ。
「すみません。ちょっとメールが来たみたいで」
「どうぞ。見てください」
希美香は送信者が誰であるのか確認した瞬間、はっとして大河内先輩を見てしまった。
「ん? 何か? 」
先輩がきょとんとした顔でこちらを見ている。
「いえ、な、な、な、何でもありません」
挙動不審な態度のまま、希美香は再びスマホに視線を戻した。