希美香の恋 その12
「あ、こんな話をしてしまって、悪かったです。蔵野さんには何も責任のないことですから。彼との因果も元はといえば、私が自分で蒔いた種です。あなたには無関係のこと。もし私がこの仕事を退くことがあっても、また別の者が担当するだろうし、蔵野さんは今のまま仕事に携わってくだされば、問題ありません。もうこの話はやめましょう。すみませんでした」
急に柔らかい表情になった先輩が、ハンドルを握り直した。
「いえ……」
兄に関係する話からようやく解放され安堵を覚える一方、大河内先輩の不安が痛いほど伝わってくる。
せっかく与えられたこの仕事も、兄との確執や姉との別離を思えば複雑な心境になることも理解できる。
真面目すぎるこの人に、どんな言葉をかけてあげればいいのか迷うあまり、口数が少なくなる一方だった。
「あのう、蔵野さん? この後、夕食とかは、どうされるのですか? 」
黙り込んでしまった希美香に向かって、さっきとはうって変わって明るい声で先輩が話しかけてきた。
「夕食、ですか? 」
「はい。もしよければ何か食べに行きませんか? それとも、まさかとは思いますが、今から工房に戻られるとか……」
「いえ、それはないです」
なぜか即答していた。
自分でもびっくりするくらいにスピーディーだった。
「ならよかったです」
「この後工房に帰りついても、九時は過ぎてしまいますよね。明日の朝早めに出勤しますので、今夜はもう戻りませんが……」
「そうですか。でも明日の朝、早いんですね。じゃあ、今夜遅くなったらだめですね」
「だ、大丈夫です! 仕事に手間取って、日付が変わってから家に帰る日も、結構よくありますし」
そうだ。先週も真夜中に帰宅して、祖父母を心配させてしまった。
これまでに何回もあったので、問題はない、はずだ。
「そうですか。それなら、少しだけ、というか、浅草でも成田でも、観光客に負けないくらい、いろいろ食べましたからね。夕飯を誘っておきながら、あれなんですけど。そんなにお腹が……」
「空いてない! 」
希美香は、先輩の言葉に呼応するように答えた。
「あははは、そうですよね。でも、ちょっとくらいなら入りそうですか? 」
あまりにも声をかけるタイミングがよかったためか、先輩がますます陽気になっていく。
「はい。大丈夫です」
もちろん先輩のお誘いを断る理由などない。
「では、行きましょう。今日は車なので私は飲めませんが、よかったら蔵野さんは飲んでくださいね」
「いえ、大河内さんが飲まないのに、私だけ飲むなんてできません。今夜は我慢します」
「我慢? ってことは、蔵野さん、結構いける口ですね? 」
もしかして、余計なことをしゃべってしまったのだろうか。
酒好きなのを見破られてしまった希美香は、肩をすぼめ小さくなった。
「いや、そんなことは……っていうのは嘘で、実はその、お酒は好きなんです。仕事で甘い物を口にすることが多いせいか、飲むと、ほっとするし、仕事の疲れや嫌なことも忘れるんですよね。週末は、ひとりで居酒屋に行くこともあります」
「ひとりで? 彼氏と一緒じゃないんですか? 」
女子がひとりで居酒屋に行くなんて、珍しいのかもしれない。
先輩が不思議がるのも頷ける。
「彼氏なんていませんよ。仕事だけで精一杯です」
もてる大河内先輩には理解できないかもしれないが、彼氏なしの二十三歳が存在することも、この際、知っててもらってもいいだろう。
「そうですか。それなら、遠慮することなくお誘いできますね。では、車は先に社の方に置いてきます。今夜は飲みましょう。帰りはタクシーで送りますので、私にまかせてください」
「え? そんな、悪いです。そんなつもりで言ったんじゃ……」
本当にそんなつもりはなかった。
先輩に食事を誘われただけでも奇跡のような出来事だったのに。
始終笑みを浮かべて上機嫌になった大河内先輩が、急にハンドルを右に切り、方向を変えた。
「あのう、大河内さん。私のこの格好じゃ、このお店にはふさわしくないと思うんですけど」
希美香は身を堅くして、重厚な扉の前で立ち止まった。
いつものTシャツの上に、仕事場のロッカーに置いてあった紺のジャケットを羽織ってはいるものの、どうも場違い感が拭えない。
靴だけは辛うじて少しヒールのある物を履いていたが、メイクもポーチの中にあったもので簡単にしか施していないし、髪にいたっては、後に束ねたまんまだ。
それもどこにでもあるような、よく伸びるのだけがとりえの黒いゴムで。
夜の街に繰り出すファッションとは到底思えない程、情けないコーディネイトに、今さらながら落ち込む。
大河内先輩は会社に車を置いたあと、すぐにこの店に電話をして、席を押さえてくれたのだが……。
「何を言っているんですか。充分です。蔵野さんはとても清楚だし知性的です。それに、ここは蔵野さんが思うような店ではありません。さあ、リラックスしてください。どうぞ」
先輩に促された希美香は、もう後には引けないと覚悟を決め、おそるおそるドアの向こう側に足を踏み入れた。