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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
特別編1 希美香の恋
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希美香の恋 その7

「ほんとにもうっ! 蔵野さんったら、どこに行ってたのよ」

「すみませんでした。ここからすぐの、こ」


 公園にいました、と言いたくても、前橋の一方的な口撃にかき消される。


「そりゃあ、休憩時間だから、そっちの自由って言えばそうなんだけど。でも外に出るならそう言ってよ」

「申し訳ありませんでした」


 そこのところは前橋の言うことに異存はない。

 なるべく関わりを持ちたくなくて、逃げるように工房を出たのは希美香の落ち度だ。


「ったく、こっちは社長からの急な連絡で、もう、てんてこ舞いだったんだから。あんったって、ホント使えない、って……。あ、あのう、こ、こ、こんにちは」


 工房の従業員通用口のところで仁王立ちになり待ち構えていた前橋は、さんざんわめき散らしたあと、突然声色を変えた。

 希美香と一緒にやって来た人にようやく気付いたようだった。


「蔵野さん、この方は、どなたかしら」


 前橋は今までに見せたことのないようなわざとらしい笑顔を浮かべ、これまた、いまだかつて聞いたことの無いような、気取った声で訊ねた。


「はい、今、そこの公園でお会いしたのですけど。仕事でこの工房にいらっしゃったとのことで」

「え? ということは、その、社長から派遣されたというのは、もしかして……」


 前橋の顔がぱっと輝いた。


「あ、申し遅れました。こんにちは。私、TY商事から参りました、こういうものです」


 その人は名詞を差し出し、前橋に深々と礼をした。


「あ、はい。ど、どうも。前橋……です」


 前橋は彼から名詞を受け取り、どういうわけか頬を赤く染めて、もじもじしている。

 年頃の男性に免疫の無い前橋にとっては、まあ、それも無理の無いことなのかもしれない。


 過去に何度もこの男性を見ている希美香ですら、このたびの再会で、ふわふわと雲の上を歩いているような感覚になるくらい夢見心地なのだから。

 何年たっても彼はあの時代の彼のままで、女性を虜にするオーラを放ち続けているのだろう。


「それとあなたは、あのう……。くらのさんっておっしゃるのですね」


 彼が極上の笑みを浮かべながらで希美香に訊いた。


「え? あ、いや、はい、そうです」


 思わず違いますと言いそうになる自分に待ったをかける。

 ダメだ。いくら目の前のこの人を知っているからと言って、素性を明かすわけにはいかない。

 幸い商社マンになった彼は、希美香のことを何も知らないようだ。

 というか、二つも学年が違う後輩を憶えている方が不自然だろう。

 希美香は気を取り直して背筋を伸ばし、「蔵野希美子と申します」 と毅然とした態度で、そうきっぱりと言い切った。


 応接室に通されたその人は、管理主任の船瀬と話をしている最中だ。

 彼がここに現れたおおまかな理由は、船瀬と前橋のこそこそしたやり取りでそれとなく察知したが、その壮大なプロジェクトに希美香はくらくらと目まいを覚えるくらいだった。

 TY商事の新たな戦略として、欧米各国に和菓子を輸出するというプロジェクトを展開するらしい。

 そこで白羽の矢が立ったのが老舗でもある朝日万葉堂であり、祖父の計らいで、創作和菓子を手がける職人がいる店としてこの工房に彼が派遣されてきた、というわけだ。

 祖父の行動はだいたいにおいて慎重であるのだが、時に今日のように何の前触れもなく、突然ことを巻き起こすことがある。

 それに振り回される現場の者は相当な迷惑をこうむるのだが、時間が経つにつれ、その行動が的確であったと認めざるを得ないことがほとんどなので、誰も社長に直接言い返す者はいない。


 希美香は応接室にお茶を出すため用意をしていると、いつの間にか作業着を脱ぎ、化粧直しをした前橋がやって来て、ちょっとそこどいてと身体を押された。

 つまりお茶の接待は自分がやるから、おまえはあっちに行け、と言うことなのだろう。

 希美香はさっと身を引き、何も言わず彼女の指示に従った。



「ちょっと、蔵野さん。船瀬主任が呼んでるわよ」


 しばらくして、前橋が少し不機嫌そうな顔をして、作業中の希美香を呼びに来た。


「あ、はい。すぐに行きます」


 希美香はやりかけていた材料の計量をやめ、更衣室に向かった。

 作業服を脱ぎ、急いで応接室のドアをノックする。


「失礼します」


 ドアを開け、応接室に入る。


「ああ、蔵野。ちょっとこっちへ」


 希美香は半ば強制的に船瀬の隣に座らされた。


「これが、当工房で創作和菓子の研究を担当しております、蔵野です。何分、まだ新人でありまして、技術もまだまだなんですが。センスだけはいいと、社長も太鼓判をおしておりまして」

「そうですか。本日、本社に出向きました時、堂野社長よりその旨お聞きしていましたが、その方が、蔵野さんだったのですね。蔵野さん、これも何かのご縁ですね。どうぞよろしくお願いします」


 そう言って彼は立ち上がり、希美香に握手を求める。


「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 希美香もその場に立ち上がり、握手に応じた。

 大きな手は彼の人柄をそのまま物語っているようで、とても温かかった。


「あ、申し遅れましたが、私、TY商事営業部の大河内と申します」


 希美香に向かって彼が名乗った。

 やはりというか、当然というか。

 TY商事の営業マンは大河内先輩だったのだ。


「大河内……さん、ですね」


 希美香はついうっかり、大河内先輩などと言いそうになるのを、やっとの思いで抑える。

 ただ不安もある。

 頭のいい大河内先輩のことだ。

 堂野遥の妹だと気付かれるのも時間の問題かもしれない。

 なるべく目を合わさないようにして、俯き加減で応対するよう心がける。


「はい。大河内です。今後、蔵野さんといろいろ話をさせていただいて、我が社との連携を深めていただくことになるかと思います。私も営業部の担当としてはまだまだ経験が浅く、不備な点も多いかと思いますが、何卒、よろしくお願いします」

「あ、はい。よろしく、お願い、します……」


 困ったことになった。

 先輩の言うことを要約すれば、つまり、これから彼と関わる機会が増える、ということみたいだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 でもまあ、これもある意味、修行の一環だと思えばいいのかもしれない、が。

 ただし、何があっても先輩に素性が知られないようにしなければならない。

 これは絶対条件だ。


「蔵野。……というわけなので、大河内さんとしっかり連絡を取って、我が朝日万葉堂の社運をかけて、このプロダクト……じゃなくて、プロジェクトを成功させるよう、よろしく頼むよ」

「わ、わかりました。頑張ります……」


 どうしてこんな新人の自分が社運をかけたようなプロジェクトに首を突っ込まなければならないのだろうか。

 それもよりによって、姉の元カレである大河内先輩と仕事をしなければならないだなんて、最低最悪の非常事態だ。

 希美香が堂野希美香であると彼に知られた時、あるいは、兄夫婦に仕事のパートナーが彼であると気付かれた時、すべてが崩壊するかもしれないのだ。

 希美香はこの時ほど、自分の運命を呪ったことはなかった。

 そして、今まで誰にも言ったことはなかったけれど。

 大河内先輩は……。

 忘れられない人であり、青春の一ページを飾る人であり、こっそりと胸を焦がした人でもあり……。

 そう、希美香の初恋の人だったのだ。


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