希美香の恋 その6
希美香はベンチの端に寄り、その人に半分の空間を譲った。
この公園にはベンチはここしかない。
同じボールを追いかけただけという見ず知らずの人に声をかけられて正直とても驚いたが、道路からもよく見えるこの場所で変なことをするとも考えられないし、とにかく悪い人には見えなかったので、気安く同席を許してしまったのだが……。
その人はマスクをしていたため、人相を見極めるには判断材料が少なく、さっきのボールを拾った行動と、優しそうな目、そして声の感じよさだけで安全認定を下してしまった。
けれど、希美香には自信があった。
この人は絶対に悪い人ではないと、瞬時に感じ取ったのだ。
「それにしてもあなたは、とても足が速いんですね。びっくりしました」
マスク越しにその人が話しかけてきた。
「あ、いや、そんなことはないです。ただ、子どもの頃から、走るのが大好きで。こういう時だけ、その、役に立ち、ます」
どうしたのだろう。
兄に鍛えられたおかげで、男性には物怖じすることなく話せるはずなのに、どうもさっきから調子が狂ってしまう。
初めて会った隣に座る人に、なぜかドキドキとときめいてしまうのだ。
「あははは。そうですか。僕も足には自信があるんですけど、今日は生憎、眼鏡をはずしていたものだから……。おかげで、思いっきり走れなくて困りました。もしマスクをしていなくて、いつものように眼鏡をかけていたら、あなたがあそこにたどり着く前に転がるボールを止めることが出来たんじゃないかと思っています」
目を細めてその人がそう言った。
「そ、そうですか。あの、失礼ですけど、風邪とか、その、ひかれているんですか? 」
こんなことまで訊いてしまう自分に驚いた。
もう、本当にどうかしてる。
初対面のどこの誰ともわからない人にこれ以上何をしようと言うのだろう。
「ええ、まあ。ちょっと体調を崩してしまって。機内が乾燥しているので、喉を痛めたようなんです」
「機内? 機内って、その、飛行機ですよね。あのう……。もしかして、パイロットさん、ですか? 」
「いや、違います。海外勤務で国外にいたのですが、このたび業務命令でまた日本に戻ることになったのです」
「そう、ですか……。なんかすみません。会ったばかりの方にいろいろ訊いてしまって」
「別に、いいですよ。いやね、僕も不思議なんですけど、あなたが公園から飛び出してくるのを見た瞬間、なぜかあなたから目が離せなくなって。いや、誤解しないでくださいね。その、変な気持ちとかじゃないですから。何だろう、初めてお会いしたはずなのに、なんというか、なつかしい感じがして」
「そうですか。なんか、不思議ですね。私も、初対面の方とこんな風に話すことなんて、あまりないもんで。あの、この辺にはよく来られるんですか? 」
「いや、初めてです。実は仕事でここに来たのですが。GPSでこのあたりだと確認したとたん、ボールが転がって来るのが見えて」
「そうですか。じゃあ、お仕事中なんですね。ごめんなさい。こんなにおしゃべりしてたら、だめですよね」
「大丈夫ですよ。約束の時刻まで、まだ少しありますから。あなたは? やっぱり仕事中ですか? 」
「あ、はい。休憩時間を、この公園で過ごしていたんです。でもそろそろ工房に戻らなきゃ」
「工房? 」
「はい。そうですけど? 」
「あの、ちょっと訊いてもいいですか? 」
「はい? 何でしょう」
「もしかして、あの角に見える工房に勤務していらっしゃる方ですか? 」
「そうです。朝日万葉堂、南工房の従業員です……けど? 」
「では、一緒に行きましょう」
「えっ? どういうことですか? 」
その人はにっこりと目を細め、立ち上がった。
そしてマスクを取り、胸ポケットから取り出した眼鏡をかけた。
「僕の仕事先は、あなたの職場みたいだ。何と言う偶然なんだろう」
本当に、何と言う偶然。何と言うめぐり合わせ……って。
え?
えええ?
希美香は目の前の海外帰りのビジネスマンをじっと見た。
失礼は百も承知で、じっくりと何度も見た。
長いまつ毛に縁取られた、優しそうな目。
そしてさらさらの前髪に彫りの深い顔立ち。
眼鏡のデザインこそ昔と違うけど、もう見間違えようのないほどその人は希美香の知っている人にそっくりだった。
というか、その人だった。
「どうしましたか? 僕に何かついてますか? 」
「い、いえ。べべべ別に、何も、ついてません」
「なら、行きましょう」
放心状態で何も考えられなくなった希美香は、なつかしい面影そのままの人と、ふわふわと雲の上にいるような気分で工房に向かって歩いて行った。