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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
第一章 あこがれ
23/269

23.薔薇色の日々 その2

 いつの間にか十一時を過ぎてしまった。

 遥はどうしているのだろう。

 仕事が長引いているのだろうか。彼はまだ帰ってこない。

 メールで遅くなると知らされていても、彼の顔を見るまではそわそわと落ち着かない。


 玄関のチャイムが鳴ったのはそれから三十分ほど経ったころだった。

 わたしは台所の椅子の位置からほんの四、五歩ほどのところにある玄関に駆け寄り、ドアを開けた。

 すると愛する人が特上の笑顔を貼り付けてそこに立っている。


「ほれ、おみやげ。柊の好きな肉まん。階英出版の牧田さんからの差し入れだ」


 まるで飲んで帰ってきたどこかの父親が、出迎えた家族にみやげの包みを差し出すようなマンガみたいな光景が、目の前で繰り広げられている。


「あ、ありがとう」


 包みを受け取ると同時に玄関のドアが閉まる。

 すると突然、遥の唇がわたしの右頬を捉えた。

 そして彼の腕にするりと抱きとめられるのだ。


「……柊、ただいま」


 たった半日離れていただけなのに、耳元をかすめる彼の声に胸が震える。

 待ち焦がれた遥が、やっと帰ってきてくれたことにホッとする自分がいた。


 撮影があった日の遥は、まるで別人のようだ。

 いつものボサボサ頭と違って、ワックスが効いているのか形よくまとまっている。

 眉も整えられて、目元がきりっと引き締まり、視線が絡むだけで心臓が飛び跳ねそうになる。

 遥に気付かれないように時おり彼の横顔を見て、こっそりと胸をときめかせていた……つもりだったけれど。


「ばーか。何見てるんだ」

「べ、別に……」

「あああ、腹減った、メシにしようぜ。柊もまだ食ってないんだろ? 」

「う、うん」


 こんなに近くにいて盗み見なんかできるわけがないのだ。

 わたしは小さく舌を出して、えへへと笑ってごまかした。


「じゃあ、ちょっくら先にシャワー浴びてくる」


 そう言ってものの数秒で、風呂場に入ってしまった。

 まさしく風呂場という表現がぴったりなタイル張りのレトロな我が家の浴室に初めて入った時、遥はとてもびっくりしていた。

 それはまるでおばあちゃんの家の風呂場を小さくしたようなレトロ感漂う空間なのだ。

 今ではもう慣れたのか、入ったついでに掃除までしてくれるようになり、とても助かっている。

 その間に味噌汁を温めなおし、おかずを並べ、茶碗にご飯をよそった。


 牧田さんというのは、遥の仕事の担当者だ。

 キャリアウーマン風の熱血編集者には違いないが、いろいろ話を聞くと結構いい人だったりする。

 てっきり二十代後半くらいで独身だと思っていたのに、実はもう三十代後半で子供が三人もいるというではないか。

 なのにスタイル抜群で、服装のセンスも申し分ない。

 短すぎないショートボブが知的な顔立ちによく映る。

 大学の研究室勤務の旦那さんを全面的にサポートするため、妻である牧田さんが精力的に仕事に励むことで家計を支えているとも聞いた。


 遥はそんな牧田さんに一目おいている。

 所詮学生の分際で、小遣い稼ぎで仕事をしている遥がどんなにあがいても、牧田さんには敵わないと気付いたみたいだ。

 遥が一人暮らしをしていると思っている牧田さんは、仕事が終わるたび、何か食べるものを彼に持たせてくれる。

 男子学生の(わび)しい食生活を熟知しているかのように、彼女の気遣いはいつも細やかだ。


 遅めの夕飯に、コラーゲンがたっぷり含まれているという特製肉まんを加えて賑やかな食卓を囲んだ後、遥に後片付けをまかせ、今度はわたしがシャワーを浴びに風呂場に向かった。

 髪をタオルで拭いて、ドライヤーをかける。

 遥が持ってきたこの大ぶりなドライヤーは重さも一級品だが、その性能はとても満足のいくものだった。

 女性用のくるくるドライヤーの半分くらいの時間で乾く働き者だ。

 そして、たっぷりの化粧水をパタパタと顔につけて馴染ませ、彼が待つベッドに、もそもそともぐりこんだ。


 遥が持ってきたセミダブルのベッドは、二人で寝るにはきっと狭いはずなんだけれど、今のわたしたちには丁度いい。

 遥に腕枕をしてもらいながら、大学であったことやアルバイトの話を報告する。

 いっぱい聞いてもらいたいのに、途中で遥のペースに巻き込まれ、気がつけば自制しなくて良くなった彼に思うがまま抱きしめられ、知ったばかりの快楽の波に呑み込まれて行く。

 瞼から頬を伝い、首筋に降りていく彼の唇のかすかなぬくもりが、わたしの呼吸を乱れさせる。

 それを合図に、よりいっそうお互いのすべてを確かめ合うのだ。

 こればかりは、いくらわたし達の付き合いの歴史が長くても、到底知り得なかったこと。

 遥もどこでどうやって覚えたのか、小説の中だけの装飾的な描写だと思っていたあれこれが、まさしくわたしの身にリアルに振りかかってくるのに驚愕する。

 本や映画で培ったわずかばかりの知識を総動員して挑むそれは、わたしの想像の域を大きく超えていて、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなることもある。

 日に日にエスカレートしていく遥に、おろおろするわたし。

 きっと何かの間違いだ。遥がそんなことするわけがないと思ってみても、男の目をした彼を止めることはもはや不可能だ。

 ぎゅっと目をつぶり、これが普通なんだ、これがあたりまえなんだ、と自分自身に言い聞かせ、嵐が過ぎるのをひたすら待つのだ。

 ふいに漏れ出るわたしの声に過剰に反応する遥がいる。

 自分が出したその声に恥ずかしさのあまり、あたふたとするわたし。

 そんなわたしの醜態をおもしろがる遥は、きっと悪魔にちがいない。


 今夜もまた、いつものようにわたしの話なんて最後まで聞かずに暴走するんだろうな、などとちょっぴり期待しながら考えをめぐらせ彼に寄り添っていると、頭の上の方からすーすーと寝息のようなものが聞こえてくる。

 次第にそれは規則正しいリズムを刻み出し、遥が眠ってしまったのを知る。

 つい今まで、あちこちをさまよっていた羞恥心のかけらもない彼の手も、急に力が抜けたようになり、わたしの身体にその重みを預けるようにして動きを止めた。

 こんなことは初めてだ。

 そんなに疲れているそぶりも見せなかったのに、すっかり寝入ってしまっている。

 慣れない仕事のせいだろうか、疲労が蓄積されていたのかもしれない。


 薄明かりの中、閉じられた彼の下目蓋(まぶた)にまつ毛の影が映し出されている。

 幼い頃に見た遥の寝顔がいつしかそこに浮かび上がり、なつかしさで心が満たされていく。

 彼を起こさないように、そっと腕枕をはずし、そして静かに目を閉じた。

 遥の胸の上に置いた手から、彼の寝息のリズムが伝わってくる。

 いつしか誘われるようにしてゆるゆると眠気が襲ってくるのを、わたしは心地よく迎え入れていた。


 薔薇色の日々が、こんなにもあっけなく終わりを告げるだなんて……。

 わたしはこの後巻き起こるとんでもない未来など予想だにせず、遥に身体を寄せて朝までぐっすりと眠り続けた。



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