希美香の恋 その4
『希美香姫、大丈夫ですか? もう心配いりません。さあ、私の後ろにお乗りなさい……』 などと言って、白馬に乗った王子様が優しく手を差し伸べてくれるなんてことが、あるはずもなく。
ましてや、『なんてことだ。あなたはこんなところにいてはいけません。私の城に行って、専属のパティシエになって厨房を統率するのはもちろん、妻としてあなたを迎え入れたい……』 なんて、うっとりするようなプロポーズを受けることなど、夢のまた夢で。
目の前でにこにこしている祖父が、実はこの子は私の孫でして……と今にも宣言してしまいそうなくらい危ない状況の中、なんとしても蔵野希美子としての立場を守りぬくため、現実的ではない妄想はかなぐり捨てて毅然とした態度で祖父とわたり合うことにした。
「社長、ありがとうございます。何かありました時にはご相談に伺いたいと思います」
そう言ったあと、誰にも見られないようこっそり、「おじいちゃん、やめてよ」 と口だけパクパク動かして祖父に牽制のメッセージを送った。
やっと希美香の窮地を理解してくれた祖父は、うおっほん! と咳払いをひとつして、再び社長の顔に戻った、と思ったのだが。
「いつでも相談に乗りますからね。遠慮なく本社の方に来なさい。えーー、では、これはどのように作ったのかな? 」
社長はまたもや目尻が下がり、おじいちゃんの顔に舞い戻ってしまった。
「あ、はい。栗餡は良く煉った餡と栗の粒をバランスよく合わせて、甘さを控えた固めのババロアの間に層になるように重ねました。一見ケーキのようでもありますが、味は和菓子に近い物になっています」
おじいちゃん、お願い。どうか私の不安な気持ちを察してください。
これ以上変な突っ込みは入れないで……と願いをこめながら、祖父に説明する。
「ふむ。若いのに、よくがんばったね。見た感じの印象は、いいと思うよ。どれどれ、いただいてみるとするか」
祖父は皿を手にして目の高さに持ち上げ、全体を様々な角度から観察したあと、添えてあった楊枝で適量を口に運ぶ。
その場にいた全員の視線が祖父の口元に注がれる。
いよいよ審判が下されるのだ。希美香の緊張は一気に高まる。
「うん。いい出来だ。味は申し分ない。そうだな、色合に工夫があればもっと良くなるよ。希美……じゃなくて、え──、蔵野さん」
「あっ、はい。ご助言、ありがとうございます」
希美香って言いかけたではないか。
おじいちゃん、マジでヤバイし。
もう勘弁してよとばかりに、希美香の心臓はバクバクと大音量で鳴り始めた。
「蔵野さん、本当によくがんばったね。とてもおいしいよ。が、ひとつ気になるのだが。栗は蔵城園のを使っていないね? 」
すると希美香を押しのけて船瀬が割り込んできた。
「あ、社長。それは、ちょっと予算的に無理がありまして。何しろ蔵城園の栗は大変貴重でありますので、わが工房では、輸入物の中でも特に品質のよいものを選んで使っております」
船瀬は、特に品質のよいものを、のところを強調しながら、自信たっぷりに答えた。
蔵城園とはもちろん実家の裏山の栗園のことだ。
ここの栗をことのほか気に入っている祖父は、限定商品にのみこの栗を使うことがある。
昔はふんだんに収穫できた栗だが、今は規模を縮小して栽培しているため、キロあたりの単価が高騰してしまっているのが実情だ。
実家の祖母は、栗の代金はいらないから、好きなだけ持っていきなさいと言うけれど、祖父はきっちりと相応の代価を支払っている。
家にいる時は裏山の栗がそんなに高価な物だとは知らなかった希美香は、収穫の季節になると、度々食卓に上る栗料理に対して、もう飽きたし食べたくないなどと言っていたことを、今となっては心から反省している。
本当は実家の栗を使いたかったのだが、船瀬の許可が出なかったため、輸入栗で代用していたのだ。
祖父の舌はごまかせなかった。
「そうか……。では船瀬君、予算がオーバーしてもいいから、蔵城園のを使って仕上げてくれ。そして期日までに指定の数量を納品できるよう、段取りをつけるように」
「は、はい。わかりました。あの、まだもうひとつありますので、こちらの方も試食していただけますか? これも私が指導した渾身の作品であります。ささ、どうぞ、お召し上がり下さい」
これこそ、主任が本当に付きっ切りで前橋と一緒に作った煉切の菓子だ。
実際のところ、希美香の菓子には、一切船瀬はかかわっていない。
栗のランクを落とされたことだけが唯一のアドバイスだった。
今度こそ本来の社長の顔に戻った祖父が、厳しい眼差しで船瀬に差し出された試作品を口にした。
「社長、いかがでしょうか。やはり、伝統的なこちらの煉切の方がよいのではないかと。これは蔵野より五年先輩の前橋が作った物でございます。前橋、社長に説明を」
「いや、説明はいい。そうだな。基本はちゃんと出来ているようだが、ちょっと粗いな。煉りが少し足らないようだ。色の付け方にももう少し上品さが欲しい。今はまだ出回ってないが、本物の柿をじっくり観察するところからやり直しだ。そっくりそのまま作れと言ってるわけではない。そこは船瀬君、君が一番よくわかっているはずだろ? 今までも同じことを常々言ってきたはずだ。次回はもっと完成度の高い物を頼むよ。それと前橋さんにしかできない、独創的な物を期待している」
瞬時に前橋の説明を断った祖父は、船瀬に厳しい評価を下した。
祖父にはこれが、ほとんど船瀬が作った物だとわかっていたのかもしれない。
前橋らしさが少しも出ていないことを、一目で見抜いていたのだろう。
そして、希美香の作った物が選ばれたこの日から、前橋の態度があきらかに攻撃的になってきたのだ。
ならばいったい自分はどうすればよかったのか。
あらかじめ祖父に私のは採用しないでと言っておくべきだったのだろうか。
希美香はなすすべもなく、ただ黙々と、船瀬に言われた材料の補充作業を続けた。
ふと見上げると、時計の針が楓の就寝時刻を指していた。
今夜はもう兄の家に行くのをあきらめるしかないなと寂しい気持ちになる。
希美香は楓の寝顔を脳裏に思い浮かべながら、粉の入った重い袋を、よいしょっと担ぎ上げた。