希美香の恋 その3
「蔵野っ! くーらーのーっ! 」
工房の管理主任をしている船瀬の太い声が闇に響き渡る。
いったい何ごとだろう。
仕事はすべて終わったはずなのに、工房を出たところで突如呼び止められたのだ。
「おい、蔵野。ちょっと戻って来い! 」
「はい。船瀬主任。何でしょうか? 」
希美香は、今から楓に会いに行くよと姉に電話をかけようとしていた手を止め、船瀬が立っている所に駆け寄った。
「おまえ、前橋に言われたこと、どうしてちゃんとやらないんだ」
船瀬が不機嫌さを露わにして腕を組む。
「前橋さんに? えっと、あのう……。いったい何のことでしょうか」
ずり落ちそうになった大きなニットのショルダーバッグを肩に掛け直し、希美香は首を傾げた。
全く話が見えない。
五十代後半の船瀬の脂ぎった顔を、暗がりの中、不思議そうに眺める。
「材料の補充だ。前橋に聞いたら、おまえに指示を出したと言っていたぞ? 」
材料の補充?
前橋との会話を思い出してみるが、そんな指示は受けていないはずだ。断言できる。
「ったく、何とぼけているんだよ。こんなことでは明日の作業に影響が出る。何もせずに帰るつもりか? 」
「いえ、その……。わ、わかりました。今すぐ補充します。でも、主任。前橋さんからは……」
「でもも、へちまもない。言い訳はいいからさっさとしろ。おまえが気が利かないから、こっちはいい迷惑だ」
「申し訳ありません。これからは気をつけます。すぐにやります」
希美香は再び休憩室横の更衣室に入り、さっき脱いだばかりの作業着に着替えた。
手指も丁寧に洗う。
作業場へはほこりのひとつさえも持ち込むことは許されないのだ。
またもや前橋のわなにはめられてしまったのだろうか。
昼の休憩でお茶を要求したあの先輩従業員、前橋珠子は、ことあるごとに希美香を陥れようとするのだ。
先月までは、材料が無くなりかけると率先して裏の倉庫に走り、重い袋を担ぎ補充作業をしていた希美香だったが、その行動が前橋には目障りだったらしい。
自分が指示した時以外は勝手なことはするなと言われ、最近はたとえ材料が不足してきても、手出しすることは許されなかった。
あからさまないじめともとれる前橋の仕打ちは、日々加速してひどくなっているように見える。
彼女がそうなった理由が思い当たらない、というわけではなかった。
多分、あのことが原因だろうと、心当たりはあった。
夏のある日、得意先の秋のお茶会で使われる新作の試作品を作っている時にそれは起こってしまった。
以前から洋菓子のテクニックも組み込んだ創作和菓子に興味を持っていた希美香は、船瀬の命により、若輩者でありながらも試作品作りのメンバーに選ばれ、持っているすべての技術を駆使し、ババロアと栗餡を合わせた生菓子を完成させたのだ。
船瀬からはなかなかの出来だと褒められ、前橋の作った煉切の柿に似せた菓子と共に社長に試食してもらう機会を得たのだ。
通常なら本社の方に試作品を持って行き、社長及び、その側近に評価を仰ぐのが筋なのだが、どういうわけか社長自らここの工房に出向くことになり、希美香は嫌な予感に見舞われていた。
希美香の苦労など多分何も考えていない祖父は、ただ単に、孫の仕事ぶりを見たいがためにわざわざここまで来るのだろうということも、希美香はとっくに気付いていた。
あれこれ気をもむ希美香とは裏腹に、船瀬の喜びようは誰の目にも明らかだった。
社長がここに来るのは管理主任の力量が認められたからだと他の従業員におだてられ、ますますその気になった船瀬のドヤ顔は、いつにも増して不気味なオーラを放っていた。
社長は、当然のごとく首長としての威厳を保った顔でここにやって来た。
けれどそれも最初だけで、希美香を発見するや否や、表情はほころび、いつもの優しいおじいちゃんの顔になってしまう。
これは大変なことになってしまったぞと思い、できるだけ祖父を避けるように工房の隅で小さくなっていたのだが、船瀬の一声で、それもままならなくなってしまった。
「しゃ、社長。この菓子は、我が工房の若手が作りましたものでございます。私の知っている限りの技法を教え込んで、この入社三年目の蔵野が私の指導どおりの物を完成させたわけであります。当工房、一押しの物でございます。さあ、蔵野。社長に詳しく製作過程を説明しなさい」
あることないことをべらべらしゃべった船瀬が、額の汗を拭いながら希美香を社長の前に押しやる。
「さあ、早く」
船瀬にぐいっと背中を押され、社長の正面に立たされた。
「社長、本日はわざわざ当工房にお越し頂き、ありがとうございます。あの、蔵野希美子……と申します」
なるべく祖父と目を合わさないようにして、簡単なあいさつをする。
蔵野希美子として他の社員の前で社長と話すのは、これが初めてという設定のはずだ。
決して馴れ馴れしい態度を見せてはいけない。
普段、このように改まった態度で接することなど全く無いので、非常に気まずかったが、これも仕方が無い。
希美香はもうどうにでもなれと腹をくくった。
「ほお、蔵野……さんね。そうかそうか。で、どうかな? この工房での仕事には慣れましたか? 」
祖父のまさかのムチャ振りに、希美香は一瞬身構える。
そんなことはまた家で話すから、何もここで聞かなくてもいいのにと思う。
祖父の一言一言に、さっきからハラハラしどおしだ。
今はとにかく、製作過程の説明を淡々と済ませたいだけだった。
「はい。工房の皆様に助けていただきながら、なんとかやっています」
これ以上何も聞かないでと祈りながら手短に答えた。
「そうか。それはよかった。何か困ったことがあったら、いつでも私のところに相談に来なさい」
その瞬間、工房にいた全員の視線が希美香に注がれたのがわかった。
おじいちゃん、いくらなんでもそれはまずいよ。
ここの管理主任を飛び越して、社長に相談しろだなんて、普通はありえないから。
ああ、誰か。誰でもいいから、私を助けてください……。
希美香のピンチは今まさに正念場を迎えようとしていた。