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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
特別編1 希美香の恋
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希美香の恋 その2

『ありがとう、希美香。でもね、もう本当にびっくりよね。まさかこんなに急に赤ちゃんが出来ただなんて、考えてもみなかったことだから』


 そりゃあ、そうだろう。

その年齢で子育てとなると一筋縄ではいかないことくらい、独身の希美香であっても充分に想像がつく。

 まさかとは思うが、その子の学校行事などは、姉である私が母親代わりに借り出されるのでは……と希美香は内心穏やかではない。

 母親のどっきり話はまだ続いた。


『でね、近いうちにこっちに帰って来ない? いろいろと相談することもあるし。私やお父さんはもちろんのこと、おばあちゃんもそれはそれは大喜びで。隣のおじさん、おばさんも、それはもう、涙を流さんばかりに喜んでいるの。だからね、休みをもらって帰ってきなさい。このあと、私からもおじいちゃんに連絡するから。ね? 』


 隣のおじちゃんとおばちゃんまで大喜びって、どういうこと? 

 母の出産が実家界隈で一大イベントとして祭り並みの騒ぎになっているとでもいうのだろうか。

 それも涙を流さんばかりの喜びようだなんて、大げさすぎでは……。


 隣のおじちゃんとおばちゃんとは、つまり柊お姉ちゃんの両親のことだ。

 どうして彼らが希美香の母親の妊娠をそこまで喜ぶのか、どう考えても納得できない。

 高齢出産のリスクを考えれば、周囲は静かに見守るものではないかと思うのだが。

 なんかおかしい……。


 希美香は、この時ようやく母親が話の主人公ではないと気付くのだ。

 じゃあ、その赤ちゃんはいったい誰なのだろう。

 いや、誰の赤ちゃんの話なのだろう。

 そもそもの原点に帰って考える必要性に迫られる。


「ねえ、母さん。もしかして、その赤ちゃんって、母さんが産むんじゃないんだ……」


 念のため確認してみる。


『え? んもう、何言ってるのよ。私が産むわけ、いや、産めるわけないじゃない。私もお父さんも、もうそんな元気はどこにも残ってないわよ』


 やっぱり違ったのだ。どうりで話の辻褄が合わないわけだ。

 自分のとんでもない早合点が嫌になる。

 仕事がハードすぎて、思考回路がおかしくなっているのかもしれない。……というより。

 父さんももうそんな元気はないなんて話、母親から直接聞くのはちょっとリアルすぎて、赤面物だった。

 ということは、いったい誰が産むのか? 

 うちの家族も隣の家族も喜ぶような人が、妊娠した、ということになる。

 だとしたら……。

 それは隣の姉しかない。


 姉は当時、ロスにいた。

 海を渡った遠いよその国に住んでいたのだ。

 それはつまり……。

 ついに姉も新しい相手との結婚が決まり、子どもを授かったということなのだろうか。

 姉はロスで中学時代の同級生と出会い、希美香にとっては中学の先輩となるその人と仲良くなったと聞いている。

 希美香は胸が痛かった。

 姉の幸せのためには喜ばしいことなのに、なぜか素直に祝う気持ちになれなかった。

 兄との結婚が叶わなかったことが残念でならないというのもあるが、姉が結婚するとなれば、その相手とも親戚になる。

 別にその先輩に対して特別な感情を抱いていたわけではない、はずだが、とにかく希美香にとって大河内は、学校全体のアイドルであり、皆のあこがれの先輩であり、絶対に姉の結婚相手などではなかったのだ。


「で、誰? もしかして、お姉ちゃん? 」


 姉以外の誰がいるというのだろう。

 希美香は確信しながらもそうでないことを祈りつつ、訊いてみた。


『そうよ。柊ちゃんに決まってるじゃない。私ももうすぐおばあちゃんになるのよ。そしてお父さんはおじいちゃん。おばあちゃんは、ひいおばあちゃんになるのよ! 東京のおじいちゃんおばあちゃんも、ひ孫が出来るってことなの。不思議でしょ? ホント、遥には振り回されっぱなしだわ』

「な、な、な、なんで? お姉ちゃんはロスだし、お兄ちゃんは東京……だよ? 」


 そんな世にも不思議な物語がまかり通るとでも? 

 いくらそういうことに疎くても、物理的に姉が兄の子どもを産むなんて事は不可能だと理解できる。

 なら、姉がいつの間にか日本に帰っていたとか、あるいは兄がロスに行っていたとでも? 

 ないない。絶対にありえない。

 姉はずっとロスに滞在してるし、兄は常に東京にいた……はずだ、はずだ、はず……ん?


『飛行機に乗れば、ロスなんてすぐよ。あの子ね、規子さんに会った後、すぐに柊ちゃんに会いに向こうに行ったみたいなの』


 希美香がこの不思議な妊娠騒動を理解するのに、それ相応の時間を要したことは言うまでもない。

 愛はいとも簡単に太平洋をも越えてしまうらしい、ということを、このたびしっかりと学んだ。



 希美香は飽きることなく楓の写真を眺めていた。

 寝ているところ、離乳食を食べているところ、眠くてぐずっているところ。

 何度見てもかわいい。

 ああ、早く会いたい。

 いないいないばあをして笑っている楓を見たい。

 手足をバタつかせて抱っこをせがむ楓に会いたくてたまらない。

 楓がいるからこそ、辛い仕事も頑張れるのだ。


「蔵野さん、いつまで休んでるの? そろそろ休憩交代よ! さっさと持ち場に戻って!」


 先輩従業員の声が無情にも希美香の至福のひと時をぶち壊す。


「あ、はい。すぐに戻ります」

「ったく、今の若い子はこれだから困っちゃう。いくら休憩だからって、携帯ばかりいじってないで、休憩室の掃除とか、やること他にあるでしょ? 製菓学校を優秀な成績で卒業したかどうだか知らないけど、そんなもの、現場ではちっとも役に立たないから。あんたみたいな子が和菓子職人目指しますなんて、到底、無理な話ってことで」

「はい。わかりました。すぐに仕事に戻ります……」


 希美香はスマホをロッカーのカバンに戻し、休憩室から出ようとしたのだが。


「あ、蔵野さん、ちょっと待って。あたしのお茶、淹れてから行ってくれる? ああ、のどが渇いた! ぬるめでお願いね」

「はい。すぐに用意します」


 この瞬間から堂野希美香は蔵野希美子になる。ここの和菓子工房の管理主任ですら、希美香が朝日万葉堂の跡取りであることは知らされていない。

 社長の孫であることは隠したまま、一菓子職人として数ある祖父の工房の中の一つで働いているのだ。

 特別扱いは望まない。他の従業員と切磋琢磨して職人としての腕を磨いていきたかった。

 父方の蔵城姓と母方の堂野姓からそれぞれ一文字づつ取って組み立てた蔵野希美子という名前で、修行に明け暮れる毎日だ。


 希美香の修行はまだ終わることはない。

 一人前になるには最低でも十年は要すると言われるこの世界だ。

 予想以上に辛いことばかりで落ち込む日々だが、不思議と辞めたいとは思わない。

 あまりの理不尽な仕打ちに、私は祖父の孫なのよと叫びたくなることもある。

 誰かに支えて欲しいと思うこともある。

 でも一度決めたことは最後までやり遂げたかった。

 歯を食いしばってでも、続けていかなければならない。


 祖父の和菓子屋を継ぐと決めた時に、恋愛とも決別した。

 製菓学校時代にもさまざまな人から交際を迫られたが、どの話もきっぱりと断った。

 どんなに寂しくても苦しくても、弱音をはく場所は、もうどこにも残っていない。


 希美香は和菓子店の後継ぎとして独り立ちできる日に向かって、一歩ずつ進み始めていた。



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