希美香の恋 その1
遥の妹希美香に焦点を当てて、彼女の人生を追ってみたいと思います。
主人公の柊と遥のその後も、希美香の目を通して伝える予定です。
希美香には絶対に幸せになって欲しいのですが、果たして彼女の恋の行方はどうなるのでしょうか……。
やっと一息ついた希美香は、休憩室でスマホを取り出し、今どきネイルのひとつも施されていない素朴な細い指先で、画面を巧に操る。
兄から送信されてきた写真をいつものようにうっとりと顔の筋肉を緩ませて見入っていた。
くりっとした目をこちらに向けて、もみじのような手のひらを差し出す愛らしい天使は、生まれて半年になる姪の楓だ。何度見てもかわいい。
抱っこして頬を寄せると、まるでマシュマロのようにふわふわしていて、一瞬にして甘いミルクの香りに包まれる。
楓は希美香にとって、ほとんど奇跡のような存在であり、命と引き換えてもいいくらい愛しい子でもあった。
楓の顔の作りは、全体的に見ると優しそうな姉の顔立ちを引き継いでいるのだけど、それぞれのパーツは兄のそれに瓜二つだったりする。
目もしかり鼻もしかり。もちろん口元も兄にそっくりだ。
なのに、全体の雰囲気は姉そのもの。部品は兄のコピーなのに全体は姉似などと激しく矛盾するが、他に表現方法が見つからないのだから仕方ない。
こうも見事に二つの遺伝子がミックスされて生まれてこようとは。楓は、やっぱり奇跡の子だと思う。
兄は過去に雑誌のモデルをしていたこともあり、俗に言うところのイケメンだと世間では言われているようだが、こうやって楓の写真を見ていると、改めて兄を客観的に見ることができるようになった。
あながち世間の評価も間違ってはいないと認めざるを得なくなるほど、楓は兄のいいところばかりを受け継いで生まれてきたようだ。
昔はけんかばかりしていて、どうにもこうにも憎たらしい大嫌いな兄だったけど、今では家族想いで、そして働き者のそれなりに尊敬できる人物に成長した。
そんな兄を少しだけ自慢に思えるようになってきたのは、私も成長したあかしなのかもしれない……と希美香はひとりほくそ笑むのだ。
今日もまた仕事が終わったら、兄夫婦のところに押しかけるつもりだ。
ラッキーなことに、彼らはここから電車で三十分くらいのところに住んでいる。
出産までは大事をとって別居していたけれど、今は家族三人で仲睦まじく暮らしているのだ。
なんだかうらやましい気もするが、新婚夫婦の元に大手を振って乗り込める妹特権を大いに駆使して、これからも楓に会うためにせっせと通い続けるつもりでいる。
世の中の一般的な考えによると、希美香の立場から見れば、姉のことは義姉と呼ぶのが普通らしい。
けれど、兄嫁である堂野柊は、希美香にとっては本当の姉以外の何者でもない。
子どもの頃から、ずっと本当のお姉ちゃんだった。
兄よりもずっと本物の姉妹のようだったと自負している。
そんな姉が兄の堂野遥と結婚すると決まった時、どれほど嬉しかったことか。
その時、希美香はまだ高校生だったが、二人の仲が普通の関係ではないことにすでに気付いていた。
大学在学中、東京で同棲しているのが発覚し大騒ぎになったが、やっぱりそうだったのかと、妙に納得したのを憶えている。
なんていうのか、いくらよそよそしさを装ってはいても、お互いの目が合った時、言葉を交わさなくても分かり合えているようなとても濃密な空気感が常にそこに漂っていた。
とにかくただの親戚同士では絶対に出さないであろう甘いオーラが、二人の周囲に常に満ちていたのを希美香は見逃さなかった。
二人が高校生になったばかりの頃、いつもだったら真っ先に希美香の部屋に駆け込んでくる姉が、その時に限って、兄の部屋に忍び込むように入っていくのを見たことがあった。
と言っても、はっきり目撃したのではなく、自分の部屋から隣の部屋にいる二人の気配を感じ取っただけなのだが。
そしてそれまでの二人なら、誰にでも聞こえるくらいの大きな声で必要最小限の会話を交わして部屋からすぐに出てくるのに、十五分近くそこから出てこなかったのだ。
それも時々ぼそぼそと小声で話しているのが聞こえるくらいで、ほとんど物音がしなかった。
何をしているのか気になり、よっぽど兄の部屋に奇襲攻撃をかけて乗り込んでやろうかと思ったのだが、いくら男女の関係に疎い希美香であっても、そこに土足で踏み込んではいけないような気がして、じっと息を潜めて、姉が顔を出すのを待っていた。
ところがその後、兄の部屋から出てきた姉は、すぐさま小走りで階段を降り、あっと言う間に隣の家に帰ってしまったのだ。
希美香の顔を見ずに姉が帰ってしまうことなどこれまでに一度もなかったので、いったい何があったのだろうと心配になり勇気を出して兄の部屋に押し入った。
その時の兄の様子は、異様の一言だった。
そうだとしか言いようのないほど、兄は別人になっていたのだ。
なぜか見たことも無いくらい赤い顔をして呆然と立ちすくんでいた兄が、希美香の姿を見るや否や、あっちへ行けと押しやり、すぐさま部屋のドアを閉めてしまった。
その時はそれ以上の原因はわからなかったが、今なら理解できる。
大方、兄が恋人関係を迫って姉に触れようとでもしたのだろう。
そして純情な姉は驚いて逃げ帰った……とまあ、こんなところだと推測がつく。
そのことがあって以来、二人の様子をつぶさに観察したところ、以前の二人ではないことはすぐにわかった。
だからと言って、恋人同士のような振る舞いは一切しないのだが、二人を取り巻く空気が変わったのを希美香は確かに感じ取っていた。
そして月日が経ち、婚約したはずの二人が、どういうわけか別れてしまった時には本当に焦った。
二人とも会うたびにみるみる痩せて元気がなくなり、生きる気力をも失っていくようだった。
兄にも姉にもメールを送ったり、やり直すよう話をしたりしたけど、結局どうにもならなかった。
そしてそれぞれが新しい伴侶を見つけ、残念ながら夫婦になる道が完全に閉ざされたと思った頃、どんでん返しが起こったのだ。
『希美香、希美香! 大変よ。あのね、赤ちゃんが出来たの。赤ちゃんが! 』
夏の日の早朝、母親のけたたましい電話の声に腰を抜かしたのは希美香のほうだった。
五十歳も間近の母親が妊娠したと言うのだから、もうびっくりどころか、宇宙人が家に遊びに来たよと言うくらいありえない出来事だった。
ギネスもののカミングアウトに、危うく失神寸前になったのは忘れもしない去年の出来事。
「母さん、大丈夫? 今さら赤ちゃんが生まれるって、なんかピンとこないけど。でもよかったね。おめでとう」
もちろん何の感情もこもらない棒読みの祝福メッセージだったのは否めない。
あまりにも突然の報告に何も考えられなかったのだ。
嬉しいだとか、待ち遠しいだとか、よくある喜びの感情が何も湧きあがってこない。
もしかして自分は冷血人間だったのだろうか。
こういう時にこそ本性が現れるのかもしれないと思い落ち込むばかりだった。
素直に母親の妊娠を喜べない自分自身に落胆している間も、電話の向こうの興奮状態は一向におさまる気配を見せなかった。




