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続こんぺいとう  作者: 大平麻由理
第一章 あこがれ
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22.薔薇色の日々 その1

 薔薇色の人生なんて、本当に実在するのだろうか。

 その響きはどこか嘘っぽくて、誰かが勝手に美化してそのように言っているだけだと思っていた。

 そう、つい最近までは……。


 小鳥のさえずりが耳に心地よく響く梅雨の晴れ間の午前。

 路地の奥から漂ってくる、おいしそうな焼き立てのパンの香りで、こんなにも幸せな気分に浸れるだなんて知らなかった。

 コンビニのアルバイトの店員さんにお釣りをもらったあと、わたしの方からどうもありがとうと言ってにっこり笑顔まで返してしまう。

 なんという心境の変化だろう。

 あと一歩のところでドアが閉まってしまい、後続の電車に乗ることになっても、ちっともイライラしない。

 学食のスパゲティーセットのサラダにトマトが付け忘れられていても、まあいいかと許してしまう。

 雨が降り続いても気にならない。

 洗濯物なんて、そのうち乾くんだし……なんてのん気なことを言ってる自分がいる。

 いったいどうなってしまったのだろう。

 その変貌ぶりにおかしくなってくすっと笑ってしまった。


 街を歩けばいろいろな人とすれ違う。

 学生に主婦にそしてサラリーマンにも。

 OLに熟年の夫婦に若いカップルに……。

 どの人もみんなわたしと同じ気持ちを抱いているのだろうかと不思議でならない。

 それとも、実はこんなにも幸せな気分を味わっているのに、まるで何も感じていないかのように、すました顔をして日常生活を送っているのだろうか。

 そんな心の中の喜びなんて、微塵も表に出さないで世の中を生きている人たちを、改めて尊敬の眼差しで見てしまう。


 遥と暮らし始めてもうすぐ二ヶ月になる。

 今まで幸せだと感じていたのはいったい何だったのだろうと思うくらい今の生活が幸福で満たされているのだ。

 わたしとしたことが、幸せの本当の意味を知らずに今日まできてしまったのだろうか。

 遥と恋人同士になった時や大学に合格した喜びよりも、今感じてる充足感は何物にも勝る。

 果たして、こんなに幸せでいいのだろうか。

 はたまた、夢を見ているのではないかと、何度も自分の頬をつねってみたりもした。


 こんな状況に未だに慣れないでいるわたしは、ふと不安になることもある。

 遥の学生マンションを引き払う時など、まさに生きた心地がしなかった。

 彼の親がマンションの賃貸契約の保証人になっている都合上、遥がマンションを出ることは、時間の問題で実家もその事実を把握することになるだろうと覚悟はしていた。

 転居の理由や次に住む場所を知るのは、親としては当然の権利だ。

 が、しかし、わたしと一緒に暮らすなんてことは、無論言えるわけがない。

 もう少し大学に近くて便利なところが見つかるまで、友達の家に身を寄せるなどと適当に言い訳をする遥を横目で見ながら、わたしの背筋がぞーっと凍りついたのは言うまでもない。


 彼の劇団サークルの仲間うちでは、メンバーの部屋に転がり込むのは日常茶飯のことで、すぐにでももっともらしいアリバイを作れるから心配ないと自信満々にのたまう。

 学生課には祖父母宅を自宅として届けているので、宿無しでも全く問題ないと実にあっけらかんとしているのだ。

 遥の母親である綾子おばさんからわたしに電話があったのも、ちょうどこの頃だった。

 遥が大学にちゃんと行ってるのか、はたまた良からぬ友達にそそのかされてるのではないかとかなり心配しているようで、何か変わったことがあったら、遥に内緒ですぐに知らせて欲しいとまで言われた。


 何かあったら……。

 もうすでにその何かがあったのだけれど、わたしと一緒に暮しているから大丈夫だよ、安心して、などとは、さすがに口が裂けても言えなかった。

 後ろめたさで、冷や汗がたらりと数滴こめかみを伝ったあの日の出来事が、まだまだ記憶に新しい。


 遥がわたしのアパートに腰を落ち着けてからは、まるで新婚生活ごっこのような日々が繰り広げられている。

 けれどわたし達には今まで積み重ねてきた長い歴史がある。

 お互いの食べ物の好みも、家でくつろいでいる時の一番だらしない姿も、もちろんわたしのノーメイク顔も全て知っての上での同居だ。

 今更取り繕うことなど何もない。

 こんなに気楽な同居相手は、世界中のどこを探しても見つからないだろうと思うほど、遥との暮らしは良好だ。

 先週から読者モデルの仕事も始まり、劇団と仕事、そして学校と目まぐるしい日々を送っている。

 にもかかわらず、夜になれば必ず遥と一緒に過ごせるので、この決断は間違っていなかったと断言できる。


 今日も遥は、仕事で遅くなる。

 近所のスーパーで買い物をしたあと夕食の準備を手早く済ませると、次の講義でテキストになっている宇治拾遺物語を予習することにした。

 高校でも古文の授業で少しは習っているのだけど、大学では進み方が半端なく速く、内容の掘り下げ方も深い。

 それに、今昔物語など他の物語との比較も行なわれるので、目を通さなくてはならない資料が山積み状態になっている。

 事前の予習なしでは到底講義は理解不能なので、結構こうやって勉強にとられる時間も多い。

 遊びとバイトばかりで、のん気な大学生が羨ましいと世間の人から言われるけど、実は意外にもしっかりと勉強しているのだ。

 電子辞書と古語辞典を駆使して必死にノートに現代和訳をしてゆくと、それなりに話の全容がつかめてくる。

 現代語訳の本もたくさん出回っているけれど、こうやって自分でひとつひとつ確かめながら解読するのがなかなかいい。

 編み物の目が積み重なってセーターが仕上がっていくのと同じで、文章を紐解いていく過程が楽しくて、最後まで訳せた時の喜びは登山で山頂まで上りきった時の達成感にも似ている気がするのだ。

 語学も同じだ。

 英語の勉強にも通じるものがあって、わたしは根っからこういった種の学問に向いているのだと思う。

 コツコツと積み重ねる勉強が苦手だと思っていた中学生の頃とは全く違う自分がいる。

 中学、高校時代に遥と共に勉強を続けてきた日々が土台となって、今のわたしが存在するのだろう。

 彼から大いなる影響を受けた勉強に対する姿勢は、まさに今、長年の時を経てようやく自分のものになってきていると実感していた。


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