219.特別編 まさか…… その2
娘のアパートに行くのは、これで三回目になる。
大学の合格発表の後、娘と綾子さんとその息子の四人で初めて上京した時と、その年のゴールデンウィーク、そして、今回ということになる。
長期の休みのたびに娘が実家に帰って来るので、こちらからそう頻繁に出向くこともなく、またその理由もなかった。
娘は俗に言うところの一人っ子で、世間の目にはわがままで甘えん坊だと映っていると思う。
いや、実際、独立させるにはまだ早いのではとためらいがあったのも事実だ。
けれど我が娘ながら、意外にも堅実でしっかりと暮らしている様子が伺え、当初の心配も最近では薄れてきている。
普段のコミュニケーションは電話での近況報告と宅配便で、少ない仕送りでも食材に困らないようにと畑で採れた野菜や米などを定期的に送っている。
やっぱりうちの野菜はおいしいよという娘の返事があるかぎり、段ボールに詰める作業は惜しまないつもりだ。
綾子さんは生まれも育ちも、ここ東京なのだが、娘が住むこのあたりの町は彼女の守備範囲ではなかったようだ。
駅からアパートまでの道は、私と同じで全く土地勘がないためか、あっちでもないこっちでもないと、電柱に表示されている町名を頼りに、路地を何度も行ったり来たりしていた。
「綾子さん、ごめんなさい。ここに来るの、もう三回目なのに、なんだかよくわからなくて。いっぱい家がありすぎて、どこも同じ景色に見えるのよね」
「ホント、わかりにくいところだわ。でも、地名でいくと、このあたりのはずなんだけど……」
綾子さんが立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回す。
私も何か見覚えがあるものがないかと、前後をぐるりと見渡した。
「あ、あそこに見えるコンビニ、知ってる。あの角を右に曲がったところだったはず」
やっと目印になるコンビニが姿を現し、ホッと胸を撫で下ろす。
一回目は不動産屋さんの案内で、そして二回目は娘が駅まで迎えにきてくれていたので、何も迷うことなどなくアパートにたどりついた。
こんなことになるなら昨夜のうちに娘に連絡を取っておけばよかったと後悔してみても、もう遅い。
結局あの後、何度も電話をかけ直してくれたのだけど、綾子さんの息子とも連絡は取れないままで、いるかいないかもわからない娘の家に、いそいそと向かっているのだ。
娘と隣の息子は、偶然にも同じ大学に通っている。
と言っても学部が違うので、住んでいるところも通学する場所も全く異なるため、二人が会うことは少ないらしく、もう一カ月以上顔を見てないよと以前娘がぼやいているのを聞いたことがある。
まあそれでも、何か困ったことがあればお互いに助け合うことも可能だろうと、親としては、隣の息子が娘の近くにいるというだけで安心だったりする。
隣の息子のはる君は、子どもの頃からとても利発な子で、学年が上がるに連れて、ますますその賢さに磨きがかかり、とても優秀な成績をおさめるようになった。
老舗の娘でもある母親の綾子さんは、その地区のミス○○にも選ばれたことがあるくらいの美貌の持ち主で、その息子である彼は言うまでもなく、誰もがうらやむほどのさわやかな好青年に育った。
なのに、うちの娘ときたら、そんな立派になったはる君のことを、いまだに客観的に見ることはできないらしく、いつも彼に文句を言ったり、わがままを言って困らせてばかりいるようだ。
本当にいつまでたっても子どもの頃のままで、一向に成長しない娘に、あきれるばかり。
面倒見のいいはる君がそばにいれば、娘に変な虫がつくこともないだろうと、彼頼みなところは親である私も娘と変わらず甘えているのかもしれない。
一方、我が娘の柊は、頑固な意思を奥に秘めながらも基本おっとりした子に育ったためか、学年が上がるごとに成績は降下し、高校も大学も、はる君の尽力のおかげで入学できたようなものだ。
悲惨な学力のまま難関大学に入学したものだから、講義内容が理解できないことも日常茶飯のようで、バイトとレポートと予習に追われる日々だといつもこぼしている。
このままだと、せっかくの青春時代も浮いた話ひとつなく終わってしまうのだろうか……。
けれどそれくらいでちょうどいいと思っている。
娘にはかわいそうだが、柊が蔵城家にとって唯一の跡取り娘というのもあって、将来的には、相応の方をこちらで見つけて見合い結婚でもさせればいいと、夫とも話している。
東京で私たちの知らない誰かと出会い、そのまま結婚したいなどと言われるより、今のまま学業に専念してくれた方が助かる。
柊に異変があれば、真っ先にはる君が知らせてくれるだろう。
蔵城家にとっても、はる君が柊の近くに存在してくれていることは、とてもありがたいことなのだ。
そんなはる君も、柊と同じく、綾子さんの実家の跡取り息子として育てられている。
代々続いている和菓子屋の暖簾を引き継ぐのだ。
二人とも、いろいろと重いものを背負っているけれど、せめて大学生の今だけでも自由にのびのびと過ごしてくれれば親としてそれ以上の喜びはないと思っている。
「お姉さん、あのアパートじゃない?」
綾子さんが数十メートル先の集合住宅を指差して言った。
「あっ! そうそう。あれよ。よかった。やっと着いたわね」
わたしは鼻歌交じりにアパートに近付き、階段を軽やかに上がって行った。